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1980年12月31日男性の肖像ダブルの背広の胸元に手を入れた中年男性の肖像写真。「Yositani Sannoymiue?(ヨシタニ・サンノミヤ?)」とサイン。米国SanFranciscoのBradless&Ruldson写真館にて撮影。=1880(明治13)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号18‐61‐0]
- 本画像はログイン後にご覧いただけます1971年12月31日下関海峡
元治元年(1864)8月、英、米、仏、蘭からなる連合艦隊は下関沖に投錨、長州藩の砲台や弾薬庫を攻撃した。長州藩は3日後には休戦を申し入れた。二人の白人はこの事件を回顧してこの下関海峡を望む砲台跡に立っていると思われる。=1971(昭和46)年、下関、撮影者:THE FAR EAST、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号19‐19‐0]
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1959年12月31日イギリス公使館(東禅寺)庭のガワ-と武士たちイギリス公使館(東禅寺)庭のガワ-と武士たち=1859(安政6)年、東京、撮影者:ピエール・ロシエ、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号70‐8‐0]
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1959年12月31日イギリス公使館高輪東禅寺山門「江戸のアメリカ合衆国領事館から撮影された風景」と解説があり麻布善福寺とされていた写真だが、それは間違いで、現高輪3丁目の東禅寺である。安政5年(1858)7月、幕府は日英修好条約を結び、それによりイギリス公使館に定められたのが東禅寺であった。幕末、スイス人ピエール・ロシエ撮影のステレオ写真である。本写真は3420及び3443に写る山門を横から撮影したものである。=1859(安政6)年、東京、撮影者:ピエール・ロシエ、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号70‐7‐0]
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1959年12月31日イギリス公使館高輪東禅寺山門安政6年(1861)東禅寺はイギリス公使館になり、初代駐日イギリス公使としてオ-ルコック(Sir Rutherford Alcock)が駐在した。文久元年(1861)5月28日に、攘夷派の水戸浪士に襲われ双方が死者や怪我人をだしている(東禅寺事件)。今も奥書院や玄関に弾痕や刀傷が残っている。3421と同じ時撮影のステレオ写真。=1859(安政6)年、東京、撮影者:ピエール・ロシエ、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号70‐6‐0]
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1944年12月31日二人の子供(甘粕兄弟)洋式の部屋の椅子に、二人の幼児が座っている。写真が鮮明でないのではっきり判断できないが、左の子供は長着に子供帯をして、右の子供は洋服を着ているようにみえる。=1944(昭和19)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号71‐64‐0]
撮影: 1944
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1931年12月31日男性の肖像男性の肖像=1931(昭和6)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐101‐0]
撮影: 1931
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1930年12月31日出水尋常小学校の入学式出水尋常小学校入学式にて入学の男児を運動場にて記念撮影する。写真は入学児童を写した記念写真のうち、男子のみを撮影したもの。髪型は全員丸刈りで、服装は多くが襟付き5つボタンの学生服である。運動場はモルタル塀で囲われ、その隅に植えられた桜の木は満開の花を咲かせている。背後に写るのは民家か。1930年撮影。=1930(昭和5)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐19‐0]
撮影: 1930
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1929年12月31日旅の思い出撮影者未詳。‘1929'とある。昭和4年の撮影か。撮影された場所や、人物などは不明である。=1929(昭和4)年か、江ノ島、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐153‐0]
撮影: 1929
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1928年12月31日裸の乳児裸の乳児を写真館にて記念撮影する。写真館内のスタジオ内に置かれた丸テーブルに敷かれた厚手の布の上に、乳児は裸体でうつ伏せになって横たわっている。1928年撮影。=1928(昭和3)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐70‐0]
撮影: 1928
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1925年12月31日子供の肖像子供の肖像=1925(大正14)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐15‐0]
撮影: 1925
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1924年12月31日頭領と弟子山口組工務所の棟梁とその弟子。似ているから親子だろうか?とすれば熊田という名前か。棟梁は鳥打帽を持ち革靴?を履いている。写真を撮るのでお洒落をして来たのであろう。屋外ではなく写真館のスタジオで背景は書割である。明治30年(1897)前後の撮影と思われる。=1924(大正13)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐31‐0]
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1924年12月31日腹掛けをした幼児腹掛けをした幼児=1924(大正13)年、大阪、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐18‐0]
撮影: 1924
- 本画像はログイン後にご覧いただけます1923年09月01日横浜大震災
大正12年(1923)9月1日、関東地震が発生した。この写真は横浜の被害を撮影した災害写真の絵はがきである。警察部付近より記念会館の猛火につつまれた実況。=撮影年月日不明、横浜、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号20‐27‐0]
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大正12年(1923)9月1日、関東地震が発生した。この写真は横浜の被害を撮影した災害写真の絵はがきである。横浜神奈川県庁と税関消失の光景。=撮影年月日不明、横浜、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号20‐26‐0]
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大正12年(1923)9月1日、関東地震が発生した。この写真は横浜の被害を撮影した災害写真の絵はがきである。横浜桟橋崩壊後の猛火=撮影年月日不明、横浜、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号20‐30‐0]
- 本画像はログイン後にご覧いただけます1923年09月01日横浜大震災
大正12年(1923)9月1日、関東地震が発生した。この写真は横浜の被害を撮影した災害写真の絵はがきである。横浜正金銀行猛火に包まれた実況=撮影年月日不明、横浜、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号20‐31‐0]
- 本画像はログイン後にご覧いただけます1923年09月01日横浜大震災
大正12年(1923)9月1日、関東地震が発生した。この写真は横浜の被害を撮影した災害写真の絵はがきである。伊勢佐木町警察署跡の惨状。=撮影年月日不明、横浜、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号20‐28‐0]
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1922年12月31日女性の肖像女性の肖像=1922(大正11)年、堺、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐118‐0]
撮影: 1922
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1921年12月31日孫を抱く祖母孫を抱く祖母=1921(大正10)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐94‐0]
撮影: 1921
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1921年12月31日幼い兄妹左は振り袖の女児。まだ涎掛けをしていて、背後から大人が支えている。兄は羽織、袴で丸坊主。当時このような写真を撮るのは、裕福な家庭であった。=1921(大正10)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐86‐0]
撮影: 1921
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1920年12月31日上野実雄と友人たち上野実雄については、現時点では詳しいことはわからない。カメラに収まった人たちは、彼の家族と使用人、友人らであろう。和装ではあるが、女性のヘアスタイルなどに大正期らしさが感じられる。=1920(大正9)年、淡路、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐9‐0]
撮影: 1920
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1920年12月31日女性の肖像女性の肖像=1920(大正9)年、福島、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐147‐0]
撮影: 1920
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1920年12月31日家族の集合写真家族の集合写真=1920(大正9)年、栃木、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐22‐0]
撮影: 1920
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1919年12月31日男性の肖像男性の肖像=1919(大正8)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐134‐0]
撮影: 1919
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1919年12月31日男性の肖像男性の肖像=1919(大正8)年、福島、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐44‐0]
撮影: 1919
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1918年12月31日女性の肖像女性の肖像=1918(大正7)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐196‐0]
撮影: 1918
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1917年12月31日運動会運動会=1917(大正6)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐59‐0]
撮影: 1917
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1915年12月31日父親と子父親と子=1915(大正4)年 、三重、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐182‐0]
撮影: 1915
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1915年12月31日男性の肖像男性の肖像=1915(大正4)年 、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号71‐66‐0]
撮影: 1915
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1914年12月31日男性の肖像男性の肖像=1914(大正3)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐170‐0]
撮影: 1914
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1914年12月31日老人と子供老人と子供=1914(大正3)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号111‐72‐0]
撮影: 1914
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1913年12月31日神明寺の生花展神明寺の生花展=1913(大正2)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐34‐0]
撮影: 1913
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1913年12月31日猪頭弁天写真裏面に「府下猪頭弁天大正二年秋九月之写」とある。江戸の水道の源である井の頭であろう。水源保護のため井の頭池の周囲には多くの樹木が植えられた。井之頭弁財天は井の頭池の西に浮かぶ小さな中之島にある。大正時代の絵葉書が手元にあるが、井之頭弁才天は立派な茅葺屋根で、池も写っている。本写真は池もなく家も質素で弁財天ではない。弁財天附近の茶店であろうか。=1913(大正2)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐23‐0]
撮影: 1913
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1913年12月31日少年の肖像少年の肖像=1913(大正2)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐168‐0]
撮影: 1913
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1913年12月31日少年の肖像少年の肖像=1913(大正2)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐175‐0]
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1913年12月31日二人の外国人と女性たちの集合写真二人の外国人と女性たちの集合写真=1913(大正2)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐10‐0]
撮影: 1913
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1912年12月31日神明寺の生花展神明寺の生花展=1912(明治45/大正元)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐119‐0]
撮影: 1912
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1911年12月31日男性の肖像男性の肖像=1911(明治44)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐235‐0]
撮影: 1911
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1911年12月31日女性の肖像女性の肖像=1911(明治44)年、大阪、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐158‐0]
撮影: 1911
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1911年12月31日丸山遊廓丸山遊廓=明治後期、長崎、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号75‐20‐0]
撮影: 明治後期、長崎、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号75‐20‐0]
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1911年12月31日大浦居留地の洋館群明治中期の大浦海岸通りに面した商館と領事館の建物が背後から撮影されている。右の道路は石畳舗装され、当時の代表的な交通手段である人力車が止まっている。港には多数の商船や艦艇が停泊し、繁栄していた頃の長崎港の様子を知ることができる。鮮明な、彩色の技術の高さを感じさせる写真である。=明治後期、長崎、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号75‐1‐0]
撮影: 明治後期、長崎、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号75‐1‐0]
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1911年12月31日野菜売り屋敷の前の野菜売りの男と客の女性。大八車に篭や桶をたくさん積んでさまざまな野菜を売っている。野菜売りは手に野菜を持ち、女性は座って桶に入った野菜を見ている。野菜売りの法被には、伊野宇恵という文字が入っている。=明治後期、場所不明、撮影者:小川一真、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号10‐41‐0]
撮影: 明治後期、場所不明、撮影者:小川一真、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号10‐41‐0]
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1911年12月31日清水の土産物店京都市東山区中部、清水寺に至る五条坂一帯は、坂が多く登り窯に適し、清水焼の産地である。また、京人形は京都各地で作られたが、特に京極の東、四条で多く作られ、また五条橋の西でもやや粗悪なものが作られていた。写真は、三年坂の土産物店で、「清水名産錦人形仕入所」「陶器売捌所」の看板をかかげ、軒先一杯まで道に張り出した台の上には、商品がぎっしりと並べられている。陶器店の売り台の横に子供が立っている。=明治後期、京都、撮影者:玉村康三郎、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号11‐35‐0]
撮影: 明治後期、京都、撮影者:玉村康三郎、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号11‐35‐0]
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1911年12月31日少年の肖像少年の肖像=1911(明治44)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐162‐0]
撮影: 1911
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1910年12月31日男性の肖像(田崎)男性の肖像(田崎)=1910(明治43)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号71‐85‐0]
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日米修好通商条約など安政の五カ国条約を調印し、桜田門外で暗殺された、幕末の大老井伊直弼の衣冠束帯姿の像。彦根で撮影されており、藤田文蔵・岡崎雪声が製作し、明治43年(1910)彦根招魂社に建立された銅像であろう。この像は金属回収で供出されたが、彦根城二の丸公園内に再建されている。=撮影年月日不明、彦根、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐151‐0]
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1909年12月31日幼児の肖像幼児の肖像=1909(明治42)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐185‐0]
撮影: 1909
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1909年12月31日少年の肖像少年の肖像=1909(明治42)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐213‐0]
撮影: 1909
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1908年12月31日兄と弟たち四兄弟のやさしい顔立ち。身なりもこざっぱり、品もよい。長兄のように上級学校への進学を目指すのであろう。東大に制帽が制定されたのは明治18年(1885)頃だとか。=1908(明治41)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐215‐0]
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1908年12月31日男性の肖像男性の肖像=1908(明治41)年、大阪、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐140‐0]
撮影: 1908
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1908年12月31日男性の肖像男性の肖像=1908(明治41)年、大阪、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐121‐0]
撮影: 1908
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1908年12月31日女性の肖像女性の肖像=1908(明治41)年、岡山、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐210‐0]
撮影: 1908
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1907年12月31日男性の肖像男性の肖像=1907(明治40)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐208‐0]
撮影: 1907
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1906年12月31日二人の男性左側の男性は角帽を被り、羽織袴で学生姿をしている。右側の男性は鳥打ち帽子を被り、コートを着ている。二人とも靴を履いている。=1906(明治39)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐254‐0]
撮影: 1906
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1906年12月31日男性の肖像男性の肖像=1906(明治39)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐228‐0]
撮影: 1906
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1905年12月31日友達の集合写真友達の集合写真=1905(明治38)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐178‐0]
撮影: 1905
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1905年12月31日軍人の肖像軍人の肖像=1905(明治38)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐243‐0]
撮影: 1905
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1905年12月31日男性の肖像男性の肖像=1905(明治38)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐227‐0]
撮影: 1905
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1905年12月31日記念撮影をする紳士達写真館にて中年紳士が記念撮影する。2人とも袴姿で長裾の上着を着用している。立った紳士は右手に杖を持ち、椅子に座った紳士は下駄を履いている。写真は1905年撮影で、右下に「寺町三条北エ入」と記されているので、撮影者は1902年創業で今本勇次郎経営のツバメ屋(寺町三条上)と想像される。=1905(明治38)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐234‐0]
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1904年12月31日山中湖からの冠雪の富士山山中湖湖畔から富士山を望んだ写真である。湖面にはうっすらと「逆さ富士」が写る。富士山の冠雪状況が「目録番号5038」写真と異なり撮影時期に差異があることがわかる。小船を操る漁師らしき人物をとそれを迎える(あるいは見送る)人物がそれぞれ写っている。=1904(明治37)年、山梨、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号98‐6‐0]
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1904年12月31日荷運び人夫「一日に三千両のおちどころ」という川柳は、毎日朝は魚市場に千両、昼は芝居に千両、夜は吉原に千両ずつ金が落ちることを詠んだものという。日本橋北詰東側には江戸時代から続いた魚河岸があった。本写真は仕入れた魚を天秤棒で担いで売りにく魚屋である。場所は日本橋周辺であろう。冷蔵庫などないからその日のうちに売り歩いた。江戸・明治期には今より新鮮な魚を食べていたのである。明治37年発行のステレオ写真。=1904(明治37)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐77‐0]
撮影: 1904
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1904年12月31日友達同士の集合写真友達同士の集合写真=1904(明治37)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐122‐0]
撮影: 1904
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1904年12月31日日光東照宮陽明門陽明門の正面を写している。日光東照宮を象徴する陽明門には、江戸時代初期の工芸・装飾技術の全てが集約されている。画面左手奥に神輿舎(しんよしゃ)の屋根が見える。=1904(明治37)年、日光、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号98‐15‐0]
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1904年12月31日大隈重信の屋敷床の間に軸が掛かり、大きな壺が置かれている。大正11年(1922)年、大隈重信が没すると、遺志によって早稲田大学に庭園とこの屋敷が寄贈された。大隈庭園は約1万坪あり、屋敷は大隈会館のある辺りに建っていた。平成6年(1994)に庭園の北側にリーガロイヤルホテル早稲田がオープンしている。明治37年(1904)発行のステレオ写真。=1904(明治37)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐73‐0]
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1904年12月31日本牧岬と人力車アンダーウッド&アンダーウッド(Underwood & Underwood)社が販売したステレオ写真。本牧岬の根岸湾側の光景。海蝕崖に三つの谷が刻まれており、その先にペリーがトリーティー・ポイントと名付けた岬の突端がある。裏面の解説によると、この岬は外国人の間でミカド・クリフと呼ばれていた。1904年の著作権表示がある。=1904(明治37)年、横浜、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐87‐0]
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1904年12月31日鍛冶屋横浜の鍛冶屋というタイトルが付いているが、詳細は不明。ストロマイヤー&ワイマン社(Strohmeyer & Wyman)の1896年の著作権表示がある。=1904(明治37)年、横浜、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐91‐0]
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1904年12月31日上野公園の学童による戦争ごっこ小学生であろうか木刀や木の枝を振りかぶり戦っている。その周囲では大人たちがこれを見学している。現在の運動会のようなものであろうか。官軍と彰義隊の激戦の場である上野公園であるが、羽織袴に運動帽という子どもたちの姿に時代を感じる。=1904(明治37)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐75‐0]
撮影: 1904
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1904年12月31日保津峡で魚釣をする男性保津峡にて魚釣をする男性を撮影する。頭を手拭いでおおった釣り人は長い釣り竿を伸ばし、激しい急流に糸をたらして釣りに勤しんでいる。保津峡は嵐峡とも呼ばれ、亀岡保津橋附近から嵐山渡月橋附近までの保津川約13kmの峡谷である。急流奇岩が連続する景勝地で、愛宕山・老坂間の標高約400mの山地をV字形に刻んだ深い峡谷に、清滝川などの支流が合流している。=1904(明治37)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号98‐10‐0]
撮影: 1904
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1904年12月31日本栖湖からの富士山富士五湖のひとつである本栖湖の北西側から富士山を望んだ写真(「目録番号3338」)のステレオ写真である。写真注記には「文人画家に愛された壮麗なる富士、本栖湖の北西より望む」とあり、木立の間から奥行きある光景を再現すべくステレオ写真化されたものであろう。=1904(明治37)年、山梨、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐82‐0]
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1904年12月31日大隈重信の屋敷戸塚村(現新宿区戸塚町)の大隈重信の屋敷である。大隈は出色の洋風建築として評判の飯田町(現九段1丁目)の屋敷に住居していたが、明治17年(1884)に東京専門学校に隣接した旧高松藩主松平頼聡(よりさと)の別邸を購入し移転した。購入すると多少の増築と改装をした。庭も写真4005に写る池を埋めたりして改造している。明治37年(1904年)、アンダーウッド&アンダーウッド社(UNDERWOOD &UNDERWOOD)発行のステレオ写真。=1904(明治37)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐74‐0]
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1904年12月31日小さな校庭で遊ぶ子供たち明治5年(1872)学制が頒布されて、義務教育が始められた。当時信州には3,000に近い寺子屋があり、庶民まで教育が普及していた。この寺子屋は近代国民教育の発足に大いに役立った。また近代的校舎ができるのは、明治7年(1874)以降であるが、写真のような仏教寺院が、明治37年(1904)現在でも軽井沢では学校の校舎として使用されていた。=1904(明治37)年、軽井沢、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐63‐0]
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1904年12月31日大谷川の山駕籠山駕籠に乗り大谷川(だいやがわ)を渡る日本女性を撮影したステレオ写真。この写真では撮影場所を特定するのは難しい。しかし、山駕籠で山岳渓流の狭い桟橋を渡る様子から察するに、馬返(うまがえし)付近の渓谷かと思われる。=1904(明治37)年、日光、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐55‐0]
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1904年12月31日聖体を運ぶ神道の行列伏見稲荷神社の例大祭、稲荷祭か。御神体を運ぶ行列が鴨川七条大橋を西へと渡っていく。橋の上は往来する大勢の観客で賑わっている。背後の鴨川東岸には明治28年(1895)竣工の京都帝室博物館が見えるが、七条大橋上には大正2年(1913)開通の市電の架線脚が見えない。明治37年(1904)撮影。=1904(明治37)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐34‐0]
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1904年12月31日東本願寺大師堂東本願寺大師堂を南東側から北西に望む。大きな噴水の周囲では大勢の子供達が集まっている。大師堂は大谷光勝法主の発願により15年の歳月を要して明治28年(1895)に竣工した。重層で入母屋造、本瓦葺、正面76m、側面56m、高さ38m、建築面積3800mの世界最大の木造建築である。1904年イギリス人写真家H・G・ポンティングの撮影。=1904(明治37)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐37‐0]
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1904年12月31日伏見稲荷大社の千本鳥居伏見稲荷大社境内南東側の稲荷山参道に林立する朱塗の千本鳥居を望む。参道は同社境内東側の上御殿から南東に延び、稲荷山入口の命婦社に続く。参道には稲荷山を参詣する人々で賑わう。左下の跪く男性は物乞であろうか。写真は鳥居に記された年号から判断して、明治26年(1893)2月以降に撮影されている。1904年イギリス人写真家H・G・ポンティングの撮影か。=1904(明治37)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐36‐0]
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1904年12月31日住吉大社の石灯籠住吉大社には航海の安全や、商売の繁栄を願って石灯籠が数多く寄進されている。明治前期のころと思われる。=1904(明治37)年、大阪、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐18‐0]
撮影: 1904
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1904年12月31日金閣寺庭園早朝の鹿苑寺庭園の遊歩道で和服姿の2人の女性がお互いに向き合い、頭を垂れ挨拶をしている様子を撮影する。互いの手には蛇の目の日傘を持つ。背後には同様に和服姿の女性が日傘を差し、立っている。明治37年(1904)撮影。=1904(明治37)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐40‐0]
- 本画像はログイン後にご覧いただけます1904年12月31日大阪城
写真の手前は六番櫓、奥に見えるのが三番櫓である。当初一番櫓から七番櫓まであったが、第二次大戦末期の昭和20年(1945)の空襲で被災し、現在残るのは六番櫓と一番櫓だけである。明治末期の写真と思われる。=1904(明治37)年、大阪、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐19‐0]
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1904年12月31日法観寺五重塔法観寺五重塔を西側参道から東に見上げる。ガス灯が建つ参道には、大勢の参詣人が往来し賑わっている。五重塔は八坂の塔とも呼ばれ、永享12年(1440)に足利義教により建立され、元和4年(1618)に大修理された。本瓦葺、各方約5.5m、高さ40mである。5階の物見柵は明治41年(1908)の大改修時に撤去された。1904年イギリス人写真家H・G・ポンティングの撮影か。=1904(明治37)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐33‐0]
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1904年12月31日住吉大社の反橋反橋と蓮池であるが、4595の写真と比べ、便宜橋(よるべはし)の欄干に違いがあることから、4595よりは後の時期と思われる。明治20年~明治末期。=1904(明治37)年、大阪、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐11‐0]
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1904年12月31日夏の四条橋通り真夏の四条通の繁華な往来の様子を撮影する。通には日覆いの屋根がかけられ、強い陽射しを遮っている。蝙蝠傘を日傘代わりにした歩く男性や人力車に乗った女性の姿が目立つ。通の両側に建つ家々の軒先には門燈が掲げられ、電柱が建つ。撮影は明治37年(1904)。=1904(明治37)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐46‐0]
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1904年12月31日瀬戸内海の漁村瀬戸内海の漁村=1904(明治37)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐12‐0]
撮影: 1904
- 本画像はログイン後にご覧いただけます1904年12月31日浅草寺
この観音堂(本堂)は三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に再建したもの。構造は高欄三手先造(こうらんみてさきづくり)というそうだ。仁王門楼上から鳩が飛び立った瞬間を撮影。昭和20年(1945)3月10日の大空襲で焼失。現在の観音堂は昭和33年(1958)10月17日に再建されたもの。ポンティング(Herbert George Ponting)撮影で明治37年(1904)発行のステレオ写真。=1904(明治37)年、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐69‐0]
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1904年12月31日鎌倉の大仏鎌倉大仏は国宝銅造阿弥陀如来坐像(明治30年〔1897〕指定)という、高徳院清浄泉寺(こうとくいんしょうじょうせんじ)の本尊である。鎌倉時代の建長4年(1252)金銅八丈の釈迦如来像を鋳始めたと史料にあるが、いつごろ阿弥陀如来になったかは不明である。撮影年代等未詳。=1904(明治37)年、鎌倉、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号98‐4‐0]
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1904年12月31日キビの刈り入れアンダーウッド&アンダーウッド(Underwood & Underwood)社が販売したステレオ写真。裏面に印刷された解説によると、横浜から北へ数マイルの地点、後方右手のポールは電信柱だという。1904年の著作権表示がある。=1904(明治37)年、横浜、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐89‐0]
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1904年12月31日中山道の前橋の藤棚前橋は群馬県の中央にあり、生糸の集散地として繁栄し県庁も置かれたが中山道は通過していない。写真の藤棚も確証はないが、池か水路があることから前橋市内であれば県庁北の利根川河畔と推察する。=1904(明治37)年、前橋、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号98‐14‐0]
撮影: 1904
- 本画像はログイン後にご覧いただけます1904年12月31日松島湾の奇岩
湾内でも有名な海食洞であった材木島の壮大な姿で、松島湾の成り立ちを堆積層によって証明できる。しかし、昭和44年(1969)の地震でアーチ部分が崩落し、昭和53年(1978)には宮城県沖地震で脚部も崩壊し、現在はその面影さえも無い。=1904(明治37)年、松島、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐54‐0]
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1904年12月31日四天王寺からの大阪市街四天王寺の五重塔から西方向を見たところ。手前は回廊と西重門、その上は経蔵で左上に見えるのは西大門である。=1904(明治37)年、大阪、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐6‐0]
撮影: 1904
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1904年12月31日寝姿の女性Underwood & Underwood が制作した「JAPAN THROUGH THE STEREOSCOPE 」の1枚。撮影は明治20年代から30年代。台紙裏面にも英文の説明があり、 (彦根の茶店で眠る) 若い女性の寝姿という場面設定に加え、綿入れ布団、日本髪が崩れないように工夫した箱枕、枕元の煙草盆や茶盆、行灯などが西洋人の興味をひいたようだ。=1904(明治37)年、彦根、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐48‐0]
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1904年12月31日宇治の茶摘宇治の茶畑で茶摘に専念する婦人達を撮影する。宇治茶の誕生は13世紀中頃に後嵯峨天皇が宇治行幸の際に平等院小松茶園と木幡西浦茶園を開設したことに由来すると伝えられる。近代には輸出用の茶が増加し、京都府や農商務省の指導により同業組合や製茶会社が創立され、品種の改良と増産がはかられた。1904年イギリス人写真家H・G・ポンティングの撮影か。=1904(明治37)年、宇治、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐22‐0]
撮影: 1904
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1904年12月31日並河靖之七宝工場内で壷に意匠を施す職人たち並河靖之七宝工場内にて壷に意匠を施す若い職人たちの様子を撮影する。職人たちは各自に割り当てられた小さな作業机に向かい小道具を使って作業に専念している。その様子を後ろで並河が見つめている。背後のガラス戸奥の陳列棚には、塗料や薬品などを入れる小瓶がたくさん並べられている。1904年イギリス人写真家H・G・ポンティングの撮影か。=1904(明治37)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐29‐0]
撮影: 1904
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1904年12月31日鎌倉の大仏像両側の銅造灯籠(とうろう)は、正徳2年(1712)正月の寄進(現存)。その後ろには旧大仏殿の礎石と思える2基の平石がある。なお、台紙に‘Copyright 1904 by Underwood & Underwood.'の印字があり、この写真は明治37年に近い時期の撮影と考えられる。=1904(明治37)年、鎌倉、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐86‐0]
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1904年12月31日春日大社で人力車に乗る女性人力車に乗る女性から二匹の鹿が両側から鹿せんべいをねだっている点景である。撮影地点は特定できないが、石灯篭を背景にしているので春日大社参道であろう。女性は和装で髷を結い、日傘をさす。車夫は草鞋履き、日笠を被る。ステレオ写真である。=1904(明治37)年、奈良、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐21‐0]
撮影: 1904
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1904年12月31日鴨川四条橋鴨川四条大橋を同橋東詰より西に望む。この四条大橋は1874年に架けられた鉄橋で、高欄には球形の電灯が設けられる。西詰北側には料亭、矢尾政が建つ。橋の中央には「山紫水明」の銘を掲げた洋風アーチの門が仮設される。橋の上には蝙蝠傘を日傘代わりにして歩く女性の姿が見える。撮影は明治37年(1904)。=1904(明治37)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐45‐0]
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1904年12月31日御室御所の花見仁和寺にて五重の塔を背に花見に興じる人々を東を向いて撮影する。縁台には履物を脱いだ2人の少女が正座して向き合い、お茶を嗜んでいる。その後方には僧侶が満開の桜の枝振りを見つめている。仁和寺の桜は花が低位置から咲くツツジのような形をした匂桜で、遅咲きの花見桜として庶民に親しまれた。明治37年(1904)撮影。=1904(明治37)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐38‐0]
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1904年12月31日群衆の中の物売り目録番号4949・4951と同じシリーズの写真。台紙の記載から、明治29年 (1896) 以前の明治中期の撮影と考えられる。猿を抱く大道芸人といっしょに、カメラに収まった人々の表情や風俗が興味深い。「JAPAN THROUGH THE STEREOSCOPE 」の表題の紙箱に収められ、ステレオスコープ付きで販売されたようだ。=1904(明治37)年、神戸、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐14‐0]
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1904年12月31日日暮れに帰る漁船六郷川の河口付近。アンダーウッド&アンダーウッド社が明治37年(1904)に売り出したステレオ写真。裏面に印刷された解説には、日本の画家が好んで描くような光景であること、対岸の川崎大師の縁日には臨時列車が出るほど賑わうことなどが記されている。=1904(明治37)年、玉川、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐90‐0]
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1904年12月31日日光街道の杉並木日光街道の杉並木を写したステレオ写真。日光は雨が多く、ぬかる路面は通行人ばかりでなく、人力車や馬車の往来に支障をきたした。写真を見ると、道路の左右に雨水を流す排水路が掘られている。人力車や行商人、旅人、蝙蝠傘を持つ人物や、それらの背後に電信柱が見える。=1904(明治37)年、日光、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐57‐0]
撮影: 1904
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1904年12月31日農家の機織り織機は高機である。女性は素足で着物に襷がけをして袂をからげて織っている。破れ障子の背景から機織り小屋と思われる。英文の説明から主婦が木綿布を織っていることが分かる。(ステレオ写真)=1904(明治37)年、場所不明、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐52‐0]
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