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「元和」の写真・映像

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    知恩院三門

    知恩院三門を西側から東に望む。門前の南方には「説教」と記された大高札が立てられ、その前に人力車に乗った人の姿が見える。知恩院三門は5間3戸、重層、入母屋造、本瓦葺で、元和5年(1619)に徳川家忠によって建立された日本最大の楼門である。楼上には霊元天皇筆の「華頂山」の額が掲げられる。=撮影年月日不明、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号46‐89‐0]

    商品コード: 2017080902883

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    銀閣寺

    慈照寺銀閣を錦鏡池西側より西に望む。写真の銀閣は観音堂とも呼ばれ、足利義政の命により長享3年(1489)に上棟、元和元年(1615)、寛永16年(1639)に修復されている。二層、宝形造、柿(こけら)葺の楼閣である。右方の植え込みは仙人洲、左の植え込み下には山名石、その奥に分界橋が姿をのぞかせる。F.ベアド撮影。=撮影年月日不明、京都、撮影者:F.ベアト、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号62‐24‐0]

    商品コード: 2017082300986

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    日光東照宮の石鳥居と五重塔

    日光東照宮境内入口の石鳥居と五重塔を写したもの。表参道を上るとこの広場に出る。石鳥居は黒田筑前守長政が元和4(1618)年に奉納した。高さは9メートルあり、江戸期に建てられた石造りの鳥居では日本最大。五重塔は高さ約36メートルで、文政元年に酒井忠進が寄進した。=撮影年月日不明、日光、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号54‐45‐2]

    商品コード: 2017081002750

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    日光東照宮五重塔

    日光東照宮境内入口の石鳥居と五重塔。石鳥居は黒田筑前守長政が元和4(1618)年に奉納した。高さは9メートル。江戸期に建てられた日本最大の石造り鳥居。文政元年に酒井忠進が寄進した五重塔は高さ約36メートル。塔の第一層は方角を表す十二支の彫刻で飾られている。=撮影年月日不明、日光、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号54‐11‐0]

    商品コード: 2017081002667

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    法観寺五重塔

    法観寺五重塔を南東に延びる小道から北西に望む。五重塔は八坂の塔とも呼ばれ、永享12年(1440)に足利義教により建立され、元和4年(1618)に大修理された。本瓦葺、各方約5.5m、高さ40mである。5階の物見柵は明治41年(1908)の大改修時に撤去されたので、写真はそれ以前の撮影。近世には塔の周囲に建つ家々は辰巳新地と呼ばれた遊廓であった。玉村康三郎撮影。=撮影年月日不明、京都、撮影者:玉村康三郎、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号48‐110‐0]

    商品コード: 2017080903191

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    法観寺五重塔

    法観寺五重塔を南東に延びる小道から北西に望む。五重塔は八坂の塔とも呼ばれ、永享12年(1440)に足利義教により建立され、元和4年(1618)に大修理された。本瓦葺、各方約5.5m、高さ40mである。5階の物見柵は明治41年(1908)の大改修時に撤去されたので、写真はそれ以前の撮影。近世には塔の周囲に建つ家々は辰巳新地と呼ばれた遊廓であった。玉村康三郎撮影。=撮影年月日不明、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号52‐1‐0]

    商品コード: 2017081002511

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    知恩院

    知恩院経蔵を御影(ごえい)堂南側より石燈籠をはさみ東に望む。経蔵は元和5年(1615)の創建で、本瓦葺で二層の宝形造である。裳階部分には壁・扉・窓がなく吹放しで、柱が立ち並んで周りを取り巻く「周柱式」が用いられている。背後には華頂山が迫る。左方から御影(ごえい)堂の屋根が姿を見せる。=撮影年月日不明、京都、撮影者:スチルフリード(?)、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号63‐16‐0]

    商品コード: 2017082800546

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    興福寺の大雄宝殿

    南京寺と通称される東明山興福寺(長崎市寺町64)の大雄宝殿。元和6年(1620)、中国・江西省浮梁県から渡来した眞圓が開創。宝殿、山門、経堂は二代住持の黙子如定が寛永18年(1641)に建立した。向かって左奥の入母屋造りは媽祖堂(媽祖は航海の守護神)、右端は庫裡(台所にあたる建物)。=撮影年月日不明、長崎、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号109‐47‐0]

    商品コード: 2017081502218

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    知恩院三門

    京都市東山区新橋通。知恩院は、法然上人の吉水禅房にはじまる、浄土宗総本山。三門は、徳川秀忠による日本最大の楼門である。元和5年(1619)着工、2年後完成している。写真は、境内の右手の池にかかる石橋ごしに斜め横から三門を見る。=撮影年月日不明、京都、撮影者:小川一真、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号5‐40‐0]

    商品コード: 2017080200928

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    神社

    徳川家の庇護を受けた江戸総鎮守の神社。祭神大己戸貴尊(おおあなむちのみこと)に平将門を配祀(はいし)する。元和元年(1616)に駿河台から現在の地(現外神田2丁目)に移った。明治5年(1872)に神田神社と改称。江戸三大祭りである神田祭は隔年の9月15日に行われた(現在は5月)。これは幕末来日のプロシャ(現ドイツ)遠征隊の画家が写生した絵(多分石版画)である。後に写真師が複写したのだろう。=撮影年月日不明、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号55‐27‐2]

    商品コード: 2017081002773

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    日光東照宮御水舎

    画面中央の白い建物は元和4(1618)年に鍋島藩が奉納した花崗岩の水盤がある御水舎(おみずや)。自然の川や湧き水ではなく、境内に水盤を置いた手水所(ちょうずどころ)は、この建物が最初と言われている。水盤は幅1.2メートル、長さ2.6メートル、高さ1メートルの花崗岩。=撮影年月日不明、日光、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号93‐12‐0]

    商品コード: 2017081400979

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    日光東照宮石鳥居

    日光東照宮境内入口の石鳥居と表参道を写したもの。表参道を上り詰めるとこの広場に出る。石鳥居は黒田筑前守長政が元和4(1618)年に奉納した。高さは9メートルあり、江戸期に建てられた石造りの鳥居では日本最大。表参道の中央に現在は無い水路が見られる。=撮影年月日不明、日光、撮影者:スチルフリード、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号78‐36‐0]

    商品コード: 2017081401240

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    長崎清水寺

    3854の絵葉書の写真よりも少し前の清水寺。寺は真言宗、元和9年僧慶順の開創。写真では中央の階段を上がった右側が鐘楼堂、外が方形、内が弓窩の石門。正面は木造、本瓦葺、単層入母屋の本堂、その左手には同じ作りの大師堂。その下には文政5年建てられて焼失後重建された聖天堂である。=明治中期、長崎、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号75‐16‐0]

    商品コード: 2017082800618

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    知恩院三門楼上の仏像

    知恩院三門楼上の仏像を撮影する。中央に釈迦如来座像、その左右に善財童子、須達長者の尊像、さらにその脇には十六羅漢像が並ぶ。極彩色の装飾が施された天井には雲竜などが描かれている。知恩院三門は5間3戸、重層、入母屋造、本瓦葺で、元和5年(1619)に徳川家忠によって建立された日本最大の楼門である。=撮影年月日不明、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐42‐0]

    商品コード: 2017082301197

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    日光東照宮の石鳥居と五重塔

    日光東照宮境内入口の石鳥居と五重塔。石鳥居は黒田筑前守長政が元和4(1618)年に奉納した。高さは9メートル。江戸期に建てられた日本最大の石造り鳥居。文政元年に酒井忠進が寄進した五重塔は高さ約36メートル。塔の第一層は方角を表す十二支の彫刻で飾られている。=撮影年月日不明、日光、撮影者:臼井秀三郎(?)、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号65‐37‐0]

    商品コード: 2017082800570

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    知恩院三門

    知恩院三門を南西側から北東に望む。門前南方の小高い松の木は風のためか少し横倒しになり、足下には伐採された松の木の丸太が無造作に置かれている。知恩院三門は5間3戸、重層、入母屋造、本瓦葺で、元和5年(1619)に徳川家忠によって建立された日本最大の楼門である。=撮影年月日不明、京都、撮影者:スチルフリード(?)、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号63‐17‐0]

    商品コード: 2017082300926

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    日光東照宮表門と鳥居

    日光東照宮境内入口の大鳥居と正面奥の表門(仁王門)を写したもの。表参道を上り詰めるとこの広場に出る。大鳥居は黒田筑前守長政が元和4(1618)年に奉納した。高さは9メートルあり、江戸期に建てられた石造りの鳥居では日本最大。画面の左外側に五重塔がある。=撮影年月日不明、日光、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号54‐9‐0]

    商品コード: 2017081002693

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    日光東照宮御水舎

    画面中央の白い建物は元和4(1618)年に鍋島藩が奉納した花崗岩の水盤がある御水舎(おみずや)。自然の川や湧き水ではなく、境内に水盤を置いた手水所(ちょうずどころ)は、この建物が最初と言われている。御水舎の右隣は経典を納める輪蔵(経蔵)である。=撮影年月日不明、日光、撮影者:玉村康三郎、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号80‐38‐0]

    商品コード: 2017081401223

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    芝増上寺三門

    伽藍配置上の中門にあたる門で「三解脱門(略して三門)」という。三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を解脱するとも、極楽にある三門(空門・無相門・無願門)をさすとも言われる。元和9年(1623)再建と伝えられる。門前の人力車は明治3年(1870)から東京で営業が開始され、翌年には1万台が走っていたという。=撮影年月日不明、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号96‐65‐0]

    商品コード: 2017081401638

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    日光東照宮鳥居

    日光東照宮境内入口の大鳥居と正面奥の表門(仁王門)を写したもの。表参道を上り詰めるとこの広場に出る。大鳥居は黒田筑前守長政が元和4(1618)年に奉納した。高さは9メートルあり、江戸期に建てられた石造りの鳥居では日本最大。画面の左外側に五重塔がある。=撮影年月日不明、日光、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号88‐16‐0]

    商品コード: 2017081400766

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    日光東照宮御水舎

    画面中央の白い建物は元和4(1618)年に鍋島藩が奉納した花崗岩の水盤がある御水舎(おみずや)。その右隣は経典を納める輪蔵(経蔵)。右手前は三代将軍家光の建てた唐銅鳥居。日本で最初の青銅製鳥居である。唐銅鳥居をくぐり、石段を上ると陽明門の前に出る。=撮影年月日不明、日光、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号88‐10‐0]

    商品コード: 2017081400793

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    知恩院三門

    京都市東山区新橋通。知恩院は、法然上人の吉水禅房にはじまる、浄土宗総本山。三門は、徳川秀忠による日本最大の楼門である。元和5年(1619)着工、2年後完成している。写真は、正面から松の木々ごしに、三門の全容を仰ぎ見る。楼上の「華頂山」の額は霊元天皇宸筆という。軒先に三手先の垂木の木口が白く整然と並んでいる。石段の下、及び中程に人影が見える。=撮影年月日不明、京都、撮影者:A.ファサリ、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号18‐9‐0]

    商品コード: 2017080201689

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    長崎清水寺

    真言宗清水寺の遠景。元和9年(1623)、僧・慶順が運慶の仏像を抱いて来崎し開いたという。島原城主・松倉重政が「瓦堂」(中央)を喜捨し、石欄をめぐらして京都の清水寺に擬したと古書は伝えている。この本堂は寛文8年(1668)10月、何高材が重建した。アーチ型の天井が前廊ではなく、内部にあるのが珍しい。安産祈願の参拝者が多い。=撮影年月日不明、長崎、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号109‐35‐0]

    商品コード: 2017081502189

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    本蓮寺境内から長崎港を望む

    本蓮寺の境内から長崎港口を撮影した写真である。本蓮寺の境内は長崎港を望む絶好の展望台であった。この寺はキリシタン時代にはサン・ジョアン・バプチスタ教会の場所であった。元和6年(1620)に創建されている。長崎港にはたくさんの船舶が停泊中である。=1874(明治7)年頃、長崎、撮影者:上野彦馬?、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号118‐45‐0]

    商品コード: 2017081600982

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    芝増上寺三門

    伽藍配置上の中門にあたる門で「三解脱門(略して三門)」という。三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を解脱するとも、極楽にある三門(空門・無相門・無願門)をさすとも言われる。元和9年(1623)再建と伝えられる。門前の人力車は明治3年(1870)から東京で営業が開始され、翌年には1万台が走っていたという。=撮影年月日不明、東京、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号53‐47‐0]

    商品コード: 2017081002653

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    法観寺五重塔

    法観寺五重塔を南東に延びる小道から北西に望む。五重塔は八坂の塔とも呼ばれ、永享12年(1440)に足利義教により建立され、元和4年(1618)に大修理された。本瓦葺、各方約5.5m、高さ40mである。5階の物見柵は明治41年(1908)の大改修時に撤去されたので、写真はそれ以前の撮影。近世には塔の周囲に建つ家々は辰巳新地と呼ばれた遊廓であった。=撮影年月日不明、京都、撮影者:スチルフリード(?)、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号63‐13‐0]

    商品コード: 2017082300955

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    大阪城外堀六番櫓

    大坂城外堀に面する内側城壁と六番櫓を、現在の上町筋方面(外堀南西角)より望む。この高石垣に見られる勾配は、石材を規格化することによる新しい技法で、元和・寛永年間に登場した築城技術の特徴を示している。=1872(明治5)年、大阪、撮影者:内田九一、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号3‐50‐0]

    商品コード: 2017080200883

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    日光東照宮御水舎

    画面中央の白い建物は元和4(1618)年に鍋島藩が奉納した花崗岩の水盤がある御水舎(おみずや)。自然の川や湧き水ではなく、境内に水盤を置いた手水所(ちょうずどころ)は、この建物が最初と言われている。水盤は幅1.2メートル、長さ2.6メートル、高さ1メートルの花崗岩。=撮影年月日不明、日光、撮影者:A.ファサリ、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号82‐36‐0]

    商品コード: 2017081401326

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    日光東照宮石鳥居

    日光東照宮境内入口の石鳥居と表参道を写したもの。表参道を上り詰めるとこの広場に出る。石鳥居は黒田筑前守長政が元和4(1618)年に奉納した。高さは9メートルあり、江戸期に建てられた石造りの鳥居では日本最大。鳥居の前に侍姿の人物が2名立ち、杉の間に空が見える。=撮影年月日不明、日光、撮影者:A.ファサリ、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号82‐34‐0]

    商品コード: 2017081401364

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    日光東照宮御水舎

    画面中央の白い建物は元和4(1618)年に鍋島藩が奉納した花崗岩の水盤がある御水舎(おみずや)。自然の川や湧き水ではなく、境内に水盤を置いた手水所(ちょうずどころ)は、この建物が最初と言われている。水盤は幅1.2メートル、長さ2.6メートル、高さ1メートルの花崗岩。=撮影年月日不明、日光、撮影者:スチルフリード、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号78‐37‐0]

    商品コード: 2017081401126

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    日光東照宮石鳥居

    日光東照宮境内入口の石鳥居と表参道を写したもの。表参道を上り詰めるとこの広場に出る。石鳥居は黒田筑前守長政が元和4(1618)年に奉納した。高さは9メートルあり、江戸期に建てられた石造りの鳥居では日本最大。表参道の中央に現在は無い水路が見られる。=撮影年月日不明、日光、撮影者:玉村康三郎、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号80‐37‐0]

    商品コード: 2017081401218

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    知恩院三門

    知恩院三門を西側から東に望む。門前には3台の人力車が停車し、物売りの商人や幼児の姿がうかがえる。知恩院三門は5間3戸、重層、入母屋造、本瓦葺で、元和5年(1619)に徳川家忠によって建立された日本最大の楼門である。楼上には霊元天皇筆の「華頂山」の額が掲げられる。=撮影年月日不明、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号42‐22‐0]

    商品コード: 2017080902677

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    銀閣寺庭園

    慈照寺本堂(左)と東求堂(右)を銀閣南側の錦鏡池縁より東北東に望む。錦鏡池の対岸中央には円錐形の向月台(こうげつだい)、右方に銀沙灘(ぎんしゃだん)の砂盛が見える。左方の橋は分界橋、右方の橋は迎仙橋である。本堂・東求堂よも足利義政の命により文明18年(1486)に創建され、元和元年(1615)、寛永16年(1640)に修復された。=撮影年月日不明、京都、撮影者:スチルフリード(?)、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号63‐11‐0]

    商品コード: 2017082301022

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    積雪の彦根城

    彦根城は、井伊直勝(直継)によって約20年の歳月をかけて建設され、元和8年(1622)に完成した。写真は手前に「いろは松」・「佐和口多聞櫓」、山手に「天秤櫓」、山頂に天守の順に写っている。いずれの建物も現存している。=撮影年月日不明、滋賀、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号72‐194‐0]

    商品コード: 2017082400456

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    日光東照宮唐銅鳥居付近

    画面左端は元和4(1618)年に鍋島藩が奉納した花崗岩の水盤がある御水舎(おみずや)。その右隣の建物は輪蔵(りんぞう)で、仏教の経典を納める経蔵である。中央手前に、三代将軍家光の建てた日本初の青銅製鳥居である唐銅鳥居。右上奥に鼓楼。その右下は釣灯籠。=撮影年月日不明、日光、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号54‐6‐2]

    商品コード: 2017081002665

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    法観寺五重塔

    法観寺五重塔を南東に延びる小道から北西に望む。五重塔は八坂の塔とも呼ばれ、永享12年(1440)に足利義教により建立され、元和4年(1618)に大修理された。本瓦葺、各方約5.5m、高さ40mである。5階の物見柵は明治41年(1908)の大改修時に撤去されたので、写真はそれ以前の撮影。近世には塔の周囲に建つ家々は辰巳新地と呼ばれた遊廓であった。F・ベアド撮影。=撮影年月日不明、京都、撮影者:F.ベアト、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号62‐14‐0]

    商品コード: 2017082301017

  • 1904年12月31日
    法観寺五重塔

    法観寺五重塔を西側参道から東に見上げる。ガス灯が建つ参道には、大勢の参詣人が往来し賑わっている。五重塔は八坂の塔とも呼ばれ、永享12年(1440)に足利義教により建立され、元和4年(1618)に大修理された。本瓦葺、各方約5.5m、高さ40mである。5階の物見柵は明治41年(1908)の大改修時に撤去された。1904年イギリス人写真家H・G・ポンティングの撮影か。=1904(明治37)年、京都、撮影者:不明、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号97‐33‐0]

    商品コード: 2017081501763

  • 1950年01月05日
    新宿マーケット移転

    移転が始まった東京・新宿マーケット(武蔵野館裏元和田組マーケット)=1950(昭和25)年1月5日

    商品コード: 2013070800529

  • 1950年01月05日
    新宿マーケット移転

    移転が始まった東京・新宿マーケット(武蔵野館裏元和田組マーケット)=1950(昭和25)年1月5日

    商品コード: 2013070800528

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    1955年04月26日
    岡山城月見櫓の復元工事

    元和~寛永年間(1615~1644)に建てられた岡山城の隅櫓。昭和8年に国指定の重要文化財となったが、老朽化が目立ってきたことから、建物を解体し修復することになった。上層は月見の宴にも使われたが、展望台の役目を持ち、食糧や兵器の貯蔵所としての機能も備え、下層の地階部分には隠し銃眼を装備するなど、「月見櫓」という優雅な呼び名の中に、城塞の厳しさを維持している。翌年6月に工事を終えた。=1955(昭和30)年4月26日、岡山市、クレジット:山陽新聞/共同通信イメージズ

    商品コード: 2018100119794

  • 1976年02月27日
    桂離宮、7月から解体修理

    苑池越しにひっそりとしたただ住まいの書院。右から古書院、中書院、新御殿-桂離宮は、元和6(1620)年ごろ着工、約50年かかって完成した八条宮智仁(としひと)親王の別荘として造営。中心の建物「書院」の老朽化がひどく、この夏から解体修理が行われる(写真ニュース「桂離宮、7月から解体修理」3枚組の1)

    商品コード: 2013070300333

  • 1994年03月03日

    平6国内 2605 ◎出口常順氏死去 電説207 死去した出口常順氏(元和宗総本山四天王寺管長)(大阪発、顔)

    商品コード: 1994030300032

  • 1996年06月28日
    寄贈される和時計 復元和時計をポルトガルに

    堺鉄砲研究会の沢田平代表らの手で復元されポルトガルに贈られる「二挺天符式袴腰型櫓時計」(にちょうてんぷしき・はかまごしがた・やぐらどけい)(カラーネガ)(さわだ・たいら)

    商品コード: 1996062800008

  • 1996年06月28日
    寄贈される和時計 復元和時計をポルトガルに

    堺鉄砲研究会の沢田平代表らの手で復元されポルトガルに贈られる「二挺天符式袴腰型櫓時計」(にちょうてんぷしき・はかまごしがた・やぐらどけい)(カラーネガ)(さわだ・たいら)

    商品コード: 1996062800012

  • 1997年01月16日

    人物通信 32474 ◎仮谷志良(かりや・しろう)・元和歌山県知事・半・正・撮(96.10.26)(カラーネガ)、顔

    商品コード: 1998042800068

  • 1997年03月04日
    半壊した倉庫 伊豆半島東方沖の群発地震

    群発地震で土手が崩れ半壊した倉庫=4日午前7時15分、静岡県伊東市玖須美元和田

    商品コード: 1997030400014

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    1997年03月05日
    かわら補修の作業員 伊豆半島東方沖群発地震

    群発地震でずれたかわらを補修する作業員=5日午後2時10分、静岡県伊東市玖須美元和田

    商品コード: 1997030500067

  • 2000年10月05日

    「カラー」◎深町梅之亮(ふかまち・うめのすけ)、00年衆院選神奈川7区立候補、無所属、元和菓子製造販売会社員、横浜市、日大中退

    商品コード: 2000100500034

  • 2003年02月07日

    「カラー」「人物通信」 ◎岩城正夫(いわき・まさお)、元和光大学教授、撮影日 2002.11.26、出稿日 2003.02.14

    商品コード: 2003020700099

  • 2003年02月25日
    けいこに励む出演者 石童丸のオペラ、今年も

    地元和歌山でのオペラ「石童丸ものがたり」上演を前に、けいこに励む出演者=25日、和歌山県かつらぎ町

    商品コード: 2003022500179

  • 2003年07月07日
    日銀人事

    関根淳氏、橋本要人氏、桜庭千尋氏、秋元和夫氏、森谷敬氏

    商品コード: 2003070700056

  • 2003年08月01日
    家宅捜索に入る捜査員ら 贈賄側の土地購入働き掛け

    企業誘致をめぐる元和泉市コスモポリス推進課長の収賄容疑で、家宅捜索に入る大阪府警の捜査員ら=1日午前10時40分、大阪府・和泉市役所

    商品コード: 2003080100047

  • 2005年12月13日
    元和歌乃山の山分親方 病気との闘いで強くなれた

    今年の名古屋場所限りで引退した、元小結和歌乃山の山分親方=11月、福岡国際センター

    商品コード: 2005121300082

  • 2008年07月02日
    江戸時代初期の史料 初期の萩焼、光悦の手に

    草創期の萩焼が、長州藩主の毛利家から本阿弥光悦に渡っていたことを示す江戸時代初期の史料「慶長元和頃物品受渡受取控」(山口県文書館所蔵)

    商品コード: 2008070200436

  • 2011年09月08日
    中江ノ島 平戸島の聖地と集落

    中江ノ島(中央)に昇る朝日。元和・寛永の殉教の舞台となり、多くのキリシタンが処刑された=2011(平成23)年9月頃、平戸市、クレジット:西日本新聞/共同通信イメージズ

    商品コード: 2015081100693

  • 2014年05月15日
    坂本哲也氏ら 日銀人事

    坂本哲也氏、松下顕氏、林新一郎氏、武元和彦氏

    商品コード: 2014051500204

  • 03:02.41
    2014年10月17日
    東照宮で千人武者行列  江戸から続く時代絵巻

    栃木県日光市の日光東照宮で17日、江戸時代から約400年続く例大祭の恒例行事「百物揃(ひゃくものぞろえ)千人武者行列」が行われた。さわやかな秋晴れの中、よろいかぶとの武者や鉄砲持ちの格好をした市民ら約700人が、約1キロの杉並木の参道を練り歩いた。集まった観光客らはカメラを向け、勇壮な姿に見入っていた。埼玉県鴻巣市の平野光臣(ひらの・みつおみ)さん(66)は「地元の人に長年支えられてきただけあって、伝統の迫力があった」と満足げだった。武者行列は、徳川家康が静岡県の久能山に葬られ、1617(元和3)年に日光へ移した際の行列を再現したとされ、毎年春と秋の例大祭で開催されている。<映像内容>日光東照宮で行われた「百物揃千人武者行列」の様子、撮影日:2014(平成26)年10月17日、撮影場所:栃木県日光市

    商品コード: 2019030605333

  • 2014年10月29日
    カボチャを持つ林代表 「宇宙かぼちゃ」特産品に

    市民グループの林護代表(左)と、「宇宙かぼちゃ」を材料に使ったどら焼きをPRする地元和菓子店の店主=17日、千葉県松戸市

    商品コード: 2014102900003

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    2016年03月10日
    記者会見する竹森裕子会長 弁護士に懲役4年6月

    楠元和貴被告の判決を受け、記者会見する横浜弁護士会の竹森裕子会長=10日午後、横浜市中区の横浜弁護士会館

    商品コード: 2016031000739

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    2016年04月16日
    会見する由良登信氏 統一候補擁立を要請

    記者会見する元和歌山弁護士会会長の由良登信氏=16日午後、和歌山市

    商品コード: 2016041600867

  • 2018年02月18日
    唐代の木造建築、広仁王廟大殿を訪ねて山西省運城市

    広仁王廟に残る唐元和3(808)年の「広仁竜泉記」碑。村役人が村民のため竜泉を利用した水利工事を行ったことが「柳体(唐代の書道家柳公権の書体)」の楷書で記されている。(資料写真)中国山西省運城市芮城(ぜいじょう)県の県城(県政府所在地)から北3キロの古魏鎮中竜泉村に、全国重点文物保護単位(国宝・重要文化財に相当)に指定される広仁王廟がある。大殿は中国に現存する最古の木造道教建築で、国内に数棟しか残されていない唐代木造建築の一つでもある。広仁王廟大殿は唐の大和5(831)年に創建され、千年以上の風雨により激しく破損していたが、2013年6月に地元文化財部門による大規模修復工事が実施された。工期は1年半に及び、今では大殿とその正面にある清代の舞台の修繕が完了している。(運城=新華社記者/王学濤)=2018(平成30)年2月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020072703289

  • 2018年07月17日
    武元和彦氏 日銀、神戸支店長に武元氏

    日銀神戸支店長に就いた武元和彦氏

    商品コード: 2018071700239

  • 2018年09月15日
    藤本道生さん 上海栄誉市民

    藤本道生さん。中国・上海市との友好交流などに貢献したとして、元和気町長の藤本道生さん(86)=和気町和気=が、上海市から栄誉市民称号を贈られた。同町などによると、県内では社会福祉法人旭川荘(岡山市北区祇園)の故江草安彦名誉理事長に続いて2人目といい、国内では7人目。=2018(平成30)年9月15日、、クレジット:山陽新聞/共同通信イメージズ

    商品コード: 2018100921071

  • 2019年04月23日
    要望書を受け取る知事 「大戸川ダム早期着工を」

    大戸川ダムの早期着工を求め、滋賀県の三日月大造知事(右)に要望書を手渡す山元和彦さん=23日午後、大津市

    商品コード: 2019042300833

  • 2019年08月31日
    GOTLAND

    Hoburg lighthouse, Hoburgen, Sundre, Gotland, Sweden.Photo: Magnus Martinsson / TT / code 2734=2019(令和元)年8月31日、クレジット:TT News Agency/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021080206160

  • 2019年11月02日
    2千年の歴史を持つかんがい用水路、現在は秋の行楽地に

    2日、寧夏回族自治区の銀川市内を流れる唐徠渠。中国寧夏回族自治区の銀川平原中部にあるかんがい用水路の唐徠渠(とうらいきょ)は、漢代に建設されたがその後使われなくなった。唐代元和15年(西暦820年)に霊州大都督府長史の李聴(り・ちょう)が中心となって浚渫(しゅんせつ)工事を実施し水路を修復。現在の名称となった。2千年以上の歴史がある唐徠渠は全長300キロ余り、同自治区内の複数の市・県・区を流れる水路で、黄河の水を引いた水路としては自治区内でかんがい区域が最も長い。唐徠渠は現在、農業用水路として重要な機能を果たしているだけでなく、都市の美しい景観の一部にもなっている。(銀川=新華社記者/馬麗娟)=2019(令和元)年11月2日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019111104715

  • 2019年11月02日
    2千年の歴史を持つかんがい用水路、現在は秋の行楽地に

    2日、寧夏回族自治区の銀川市内を流れる唐徠渠。中国寧夏回族自治区の銀川平原中部にあるかんがい用水路の唐徠渠(とうらいきょ)は、漢代に建設されたがその後使われなくなった。唐代元和15年(西暦820年)に霊州大都督府長史の李聴(り・ちょう)が中心となって浚渫(しゅんせつ)工事を実施し水路を修復。現在の名称となった。2千年以上の歴史がある唐徠渠は全長300キロ余り、同自治区内の複数の市・県・区を流れる水路で、黄河の水を引いた水路としては自治区内でかんがい区域が最も長い。唐徠渠は現在、農業用水路として重要な機能を果たしているだけでなく、都市の美しい景観の一部にもなっている。(銀川=新華社記者/馬麗娟)=2019(令和元)年11月2日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019111104723

  • 2019年11月02日
    2千年の歴史を持つかんがい用水路、現在は秋の行楽地に

    2日、寧夏回族自治区青銅峡市を流れる唐徠渠。中国寧夏回族自治区の銀川平原中部にあるかんがい用水路の唐徠渠(とうらいきょ)は、漢代に建設されたがその後使われなくなった。唐代元和15年(西暦820年)に霊州大都督府長史の李聴(り・ちょう)が中心となって浚渫(しゅんせつ)工事を実施し水路を修復。現在の名称となった。2千年以上の歴史がある唐徠渠は全長300キロ余り、同自治区内の複数の市・県・区を流れる水路で、黄河の水を引いた水路としては自治区内で最もかんがい区域が長い。唐徠渠は現在、農業用水路として重要な機能を果たしているだけでなく、都市の美しい景観の一部にもなっている。(銀川=新華社記者/馬麗娟)=2019(令和元)年11月2日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019111104725

  • 2019年11月02日
    2千年の歴史を持つかんがい用水路、現在は秋の行楽地に

    2日、寧夏回族自治区の銀川市内を流れる唐徠渠。中国寧夏回族自治区の銀川平原中部にあるかんがい用水路の唐徠渠(とうらいきょ)は、漢代に建設されたがその後使われなくなった。唐代元和15年(西暦820年)に霊州大都督府長史の李聴(り・ちょう)が中心となって浚渫(しゅんせつ)工事を実施し水路を修復。現在の名称となった。2千年以上の歴史がある唐徠渠は全長300キロ余り、同自治区内の複数の市・県・区を流れる水路で、黄河の水を引いた水路としては自治区内でかんがい区域が最も長い。唐徠渠は現在、農業用水路として重要な機能を果たしているだけでなく、都市の美しい景観の一部にもなっている。(銀川=新華社記者/馬麗娟)=2019(令和元)年11月2日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019111104765

  • 2019年11月02日
    2千年の歴史を持つかんがい用水路、現在は秋の行楽地に

    2日、寧夏回族自治区青銅峡市を流れる唐徠渠。中国寧夏回族自治区の銀川平原中部にあるかんがい用水路の唐徠渠(とうらいきょ)は、漢代に建設されたがその後使われなくなった。唐代元和15年(西暦820年)に霊州大都督府長史の李聴(り・ちょう)が中心となって浚渫(しゅんせつ)工事を実施し水路を修復。現在の名称となった。2千年以上の歴史がある唐徠渠は全長300キロ余り、同自治区内の複数の市・県・区を流れる水路で、黄河の水を引いた水路としては自治区内でかんがい区域が最も長い。唐徠渠は現在、農業用水路として重要な機能を果たしているだけでなく、都市の美しい景観の一部にもなっている。(銀川=新華社記者/馬麗娟)=2019(令和元)年11月2日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019111104612

  • 2019年11月02日
    2千年の歴史を持つかんがい用水路、現在は秋の行楽地に

    2日、唐徠渠上流の青銅峡市に作られた観光客向けの風景区。中国寧夏回族自治区の銀川平原中部にあるかんがい用水路の唐徠渠(とうらいきょ)は、漢代に建設されたがその後使われなくなった。唐代元和15年(西暦820年)に霊州大都督府長史の李聴(り・ちょう)が中心となって浚渫(しゅんせつ)工事を実施し水路を修復。現在の名称となった。2千年以上の歴史がある唐徠渠は全長300キロ余り、同自治区内の複数の市・県・区を流れる水路で、黄河の水を引いた水路としては自治区内でかんがい区域が最も長い。唐徠渠は現在、農業用水路として重要な機能を果たしているだけでなく、都市の美しい景観の一部にもなっている。(銀川=新華社記者/馬麗娟)=2019(令和元)年11月2日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019111104730

  • 2019年11月02日
    2千年の歴史を持つかんがい用水路、現在は秋の行楽地に

    2日、黄河から唐徠渠に水を引く青銅峡ダム。中国寧夏回族自治区の銀川平原中部にあるかんがい用水路の唐徠渠(とうらいきょ)は、漢代に建設されたがその後使われなくなった。唐代元和15年(西暦820年)に霊州大都督府長史の李聴(り・ちょう)が中心となって浚渫(しゅんせつ)工事を実施し水路を修復。現在の名称となった。2千年以上の歴史がある唐徠渠は全長300キロ余り、同自治区内の複数の市・県・区を流れる水路で、黄河の水を引いた水路としては自治区内でかんがい区域が最も長い。唐徠渠は現在、農業用水路として重要な機能を果たしているだけでなく、都市の美しい景観の一部にもなっている。(銀川=新華社記者/馬麗娟)=2019(令和元)年11月2日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019111104721

  • 00:22.76
    2019年11月08日
    「新華社」2千年の歴史を持つかんがい用水路、現在は秋の行楽地に

    中国寧夏回族自治区の銀川平原中部にあるかんがい用水路の唐徠渠(とうらいきょ)は、漢代に建設されたがその後使われなくなった。唐代元和15年(西暦820年)に霊州大都督府長史の李聴(り・ちょう)が中心となって浚渫(しゅんせつ)工事を実施し水路を修復。現在の名称となった。2千年以上の歴史がある唐徠渠は全長300キロ余り、同自治区内の複数の市・県・区を流れる水路で、黄河の水を引いた水路としては自治区内でかんがい区域が最も長い。唐徠渠は現在、農業用水路として重要な機能を果たしているだけでなく、都市の美しい景観の一部にもなっている。(記者/馬麗娟)<映像内容>かんがい用水路の風景、撮影日:撮影日不明、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019111104547

  • 2020年09月30日
    29日、平安南道平原郡の元和協同農場に新たに建てられた農村住宅への入居を祝う住民

    29日、平安南道平原郡の元和協同農場に新たに建てられた農村住宅への入居を祝う住民(朝鮮中央通信=朝鮮通信)、クレジット:朝鮮通信/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020093008722

  • 2020年11月09日
    都市高速道路網の建設が急ピッチ江蘇省蘇州市

    9日、中鉄十局集団第五公司が請け負った蘇州市春申湖路快速化改造プロジェクトの第3セクション元和塘高架橋の工事現場。(小型無人機から)中国江蘇省蘇州市はここ数年、「質が高く効率的で、環境に配慮し、安全・経済的」な現代的・総合的交通運輸システムの構築に積極的に取り組んできた。また、一連の重要な交通インフラプロジェクトの推進を加速させ、都市高速道路網の建設を推進。道路網のアクセス可能性を高め、高速道路や幹線道路、幹線道路の連絡道路、支線道路などの調和のとれた道路網システムを構築することで、市民の移動の利便性向上、迅速化を目指している。(蘇州=新華社記者/李博)=2020(令和2)年11月9日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020111300915

  • 2020年11月09日
    都市高速道路網の建設が急ピッチ江蘇省蘇州市

    9日、蘇州市春申湖路快速化改造プロジェクト第3セクション元和塘東トンネルの工事現場で働く中鉄十局集団第五公司の作業員。中国江蘇省蘇州市はここ数年、「質が高く効率的で、環境に配慮し、安全・経済的」な現代的・総合的交通運輸システムの構築に積極的に取り組んできた。また、一連の重要な交通インフラプロジェクトの推進を加速させ、都市高速道路網の建設を推進。道路網のアクセス可能性を高め、高速道路や幹線道路、幹線道路の連絡道路、支線道路などの調和のとれた道路網システムを構築することで、市民の移動の利便性向上、迅速化を目指している。(蘇州=新華社記者/李博)=2020(令和2)年11月9日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020111300912

  • 2020年11月09日
    都市高速道路網の建設が急ピッチ江蘇省蘇州市

    9日、蘇州市春申湖路快速化改造プロジェクト第3セクション元和塘東トンネルの工事現場で働く中鉄十局集団第五公司の作業員。中国江蘇省蘇州市はここ数年、「質が高く効率的で、環境に配慮し、安全・経済的」な現代的・総合的交通運輸システムの構築に積極的に取り組んできた。また、一連の重要な交通インフラプロジェクトの推進を加速させ、都市高速道路網の建設を推進。道路網のアクセス可能性を高め、高速道路や幹線道路、幹線道路の連絡道路、支線道路などの調和のとれた道路網システムを構築することで、市民の移動の利便性向上、迅速化を目指している。(蘇州=新華社記者/李博)=2020(令和2)年11月9日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020111300891

  • 2021年03月08日
    唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺境内にある「敕賜霊山開善禅院之記」(左)。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)=配信日:2021(令和3)年3月8日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031903723

  • 2021年03月18日
    (15)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    霊山寺の「壁蘭」。(2020年12月3日撮影)中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/耀開法師)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814446

  • 2021年03月18日
    (5)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    11日、霊山寺の大雄宝殿内部。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/耀開法師)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031813980

  • 2021年03月18日
    (17)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    16日、霊山寺の傍らにある同寺の施主、洪氏一族を祭る洪氏宗祠。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/耀開法師)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814557

  • 2021年03月18日
    (27)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    16日、霊山寺の唐大顛祖師塔(舌鏡塔)。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/耀開法師)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031900239

  • 2021年03月18日
    (1)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺の山門。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031813594

  • 2021年03月18日
    (9)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺境内にある韓愈が大顛に贈った手紙の碑刻。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814047

  • 2021年03月18日
    (8)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺の観音殿内部。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814048

  • 2021年03月18日
    (13)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺の留衣亭。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814434

  • 2021年03月18日
    (3)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺のツバキと禅楼。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031813598

  • 2021年03月18日
    (21)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺の唐大顛祖師塔(舌鏡塔)。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814702

  • 2021年03月18日
    (23)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    12日、霊山寺の雲板(右)と木魚。雲板は主に食事の時を知らせるために叩く。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/耀開法師)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031900050

  • 2021年03月18日
    (2)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺の碑林。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031813601

  • 2021年03月18日
    (6)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    11日、霊山寺の大雄宝殿。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/耀開法師)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814038

  • 2021年03月18日
    (7)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺の観音殿。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814046

  • 2021年03月18日
    (10)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    16日、霊山寺の傍らにある同寺の施主、洪氏一族を祭る洪氏宗祠の正門。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/耀開法師)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814432

  • 2021年03月18日
    (12)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺唐大顛祖師記念堂の前庭。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814437

  • 2021年03月18日
    (22)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺に残る唐代の井戸。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814697

  • 2021年03月18日
    (20)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺の塔院と建築群。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814700

  • 2021年03月18日
    (4)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺の大顛祖師像。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031813726

  • 2021年03月18日
    (11)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺の唐大顛祖師記念堂。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814291

  • 2021年03月18日
    (18)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺に残る再建や修復に関する石碑。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814559

  • 2021年03月18日
    (16)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺の山門。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031814562

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