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  • 2019年07月02日
    明代孤本「孟氏少刺史族譜」の写本、382年ぶりに河北で発見

    2日、河北省任県双蓬頭村で、孟氏の先祖代々の繋がりについて記された「孟氏少刺史族譜」のページ。中国河北省邢台(けいだい)市任県の文化財保護部門はこのほど、同県辛店(しんでん)鎮双蓬頭村で、明代の孤本(その現物のみ存在する本)「孟氏少刺史族譜(家譜)」の写本が見つかったと明らかにした。同族譜の完成は明代の皇帝・崇禎(すうてい)10年8月15日(1637年)なので、今から382年前のことになる。「孟氏少刺史族譜」には孟氏の家系がいくつかに分かれて広がっていった状況が細かく記載され、明代に孟温(もう・おん)、孟良(もう・りょう)の兄弟が同地に移り住んでから10世代にわたり、多くの使用人を抱え、人口が大いに増え、豊かな生活を送ってきたことや、一族が「少刺史(しょうしし)」(「刺史」は中国の官職名)の名を冠することになったいわれが詳しく説明されている。また、邢台市一帯の政治、経済、和合文化、風習・生活の実情といった社会・経済状況にも触れており、孟家の決まり事や一族の儀式などの状況についても記されている。(邢台=新華社記者/秦婧)=2019(令和元)年7月2日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019071707064

  • 2019年07月02日
    明代孤本「孟氏少刺史族譜」の写本、382年ぶりに河北で発見

    2日、河北省任県双蓬頭村で、「孟氏少刺史族譜」の命名の由来について記されたページ。中国河北省邢台(けいだい)市任県の文化財保護部門はこのほど、同県辛店(しんでん)鎮双蓬頭村で、明代の孤本(その現物のみ存在する本)「孟氏少刺史族譜(家譜)」の写本が見つかったと明らかにした。同族譜の完成は明代の皇帝・崇禎(すうてい)10年8月15日(1637年)なので、今から382年前のことになる。「孟氏少刺史族譜」には孟氏の家系がいくつかに分かれて広がっていった状況が細かく記載され、明代に孟温(もう・おん)、孟良(もう・りょう)の兄弟が同地に移り住んでから10世代にわたり、多くの使用人を抱え、人口が大いに増え、豊かな生活を送ってきたことや、一族が「少刺史(しょうしし)」(「刺史」は中国の官職名)の名を冠することになったいわれが詳しく説明されている。また、邢台市一帯の政治、経済、和合文化、風習・生活の実情といった社会・経済状況にも触れており、孟家の決まり事や一族の儀式などの状況についても記されている。(邢台=新華社記者/秦婧)=2019(令和元)年7月2日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019071707034

  • 2019年07月02日
    明代孤本「孟氏少刺史族譜」の写本、382年ぶりに河北で発見

    2日、河北省任県双蓬頭村で、孟氏の先祖代々の繋がりについて記された「孟氏少刺史族譜」のページ。中国河北省邢台(けいだい)市任県の文化財保護部門はこのほど、同県辛店(しんでん)鎮双蓬頭村で、明代の孤本(その現物のみ存在する本)「孟氏少刺史族譜(家譜)」の写本が見つかったと明らかにした。同族譜の完成は明代の皇帝・崇禎(すうてい)10年8月15日(1637年)なので、今から382年前のことになる。「孟氏少刺史族譜」には孟氏の家系がいくつかに分かれて広がっていった状況が細かく記載され、明代に孟温(もう・おん)、孟良(もう・りょう)の兄弟が同地に移り住んでから10世代にわたり、多くの使用人を抱え、一族の人数が増え、豊かな生活を送ってきたことや、一族が「少刺史(しょうしし)」(「刺史」は中国の官職名)の名を冠することになったいわれが詳しく説明されている。また、邢台市一帯の政治、経済、和合文化、風習・生活の実情といった社会・経済状況にも触れており、孟家の決まり事や一族の儀式などの状況についても記されている。(邢台=新華社記者/秦婧)=2019(令和元)年7月2日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019071707068

  • 2019年07月02日
    明代孤本「孟氏少刺史族譜」の写本、382年ぶりに河北で発見

    2日、河北省任県双蓬頭村で、孟氏の先祖代々の繋がりについて記された「孟氏少刺史族譜」のページ。中国河北省邢台(けいだい)市任県の文化財保護部門はこのほど、同県辛店(しんでん)鎮双蓬頭村で、明代の孤本(その現物のみ存在する本)「孟氏少刺史族譜(家譜)」の写本が見つかったと明らかにした。同族譜の完成は明代の皇帝・崇禎(すうてい)10年8月15日(1637年)なので、今から382年前のことになる。「孟氏少刺史族譜」には孟氏の家系がいくつかに分かれて広がっていった状況が細かく記載され、明代に孟温(もう・おん)、孟良(もう・りょう)の兄弟が同地に移り住んでから10世代にわたり、多くの使用人を抱え、一族の人数が増え、豊かな生活を送ってきたことや、一族が「少刺史(しょうしし)」(「刺史」は中国の官職名)の名を冠することになったいわれが詳しく説明されている。また、邢台市一帯の政治、経済、和合文化、風習・生活の実情といった社会・経済状況にも触れており、孟家の決まり事や一族の儀式などの状況についても記されている。(邢台=新華社記者/秦婧)=2019(令和元)年7月2日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019071707028

  • 02:06.23
    2019年07月17日
    「新華社」明代孤本「孟氏少刺史族譜」の写本、382年ぶりに河北で発見

    中国河北省邢台(けいだい)市任県の文化財保護部門はこのほど、同県辛店(しんでん)鎮双蓬頭村で、明代の孤本(その現物のみ存在する本)「孟氏少刺史族譜(家譜)」の写本が見つかったと明らかにした。同族譜の完成は明代の皇帝・崇禎(すうてい)10年8月15日(1637年)なので、今から382年前のことになる。「孟氏少刺史族譜」には孟氏の家系がいくつかに分かれて広がっていった状況が細かく記載され、明代に孟温(もう・おん)、孟良(もう・りょう)の兄弟が同地に移り住んでから10世代にわたり、多くの使用人を抱え、一族の人数が増え、豊かな生活を送ってきたことや、一族が「少刺史(しょうしし)」(「刺史」は中国の官職名)の名を冠することになったいわれが詳しく説明されている。また、邢台市一帯の政治、経済、和合文化、風習・生活の実情といった社会・経済状況にも触れており、孟家の決まり事や一族の儀式などの状況についても記されている。邢台市の文化・歴史の専門家である蘭剣輝(らん・けんき)氏は、「『孟氏少刺史族譜』の保存状態は極めてよく、文章の構成もしっかりしている。よって、明代の冀中南(きちゅうなん)地区の政治、経済、和合文化、社会生活および一族の儀式・決まり事、家風などの研究において、同族譜は十分な歴史的価値がある」と説明している。(記者/秦婧)<映像内容>「孟氏少刺史族譜(家譜)」の写本、撮影日:撮影日不明、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019071706402

  • 2020年05月15日
    中国古代の諸民族の知恵を記録した「渓州銅柱」湖南省

    15日、湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮の風景。中国湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮の銅柱館に保存されている銅製の柱「渓州銅柱(けいしゅうどうちゅう)」は、中央部分が空洞で八角形をしており、高さ約4メートル、重さ2500キロ、2千文字余りの銘文が刻まれている。中国古代の諸民族の自治や管理の知恵を記録した貴重な文物であり、中国西南部の少数民族の政治、経済、文化、軍事などの研究のための重要な物的資料となっている。後晋の天福4(939)年、渓州刺史(しし、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名)の彭士愁(ほう・ししゅう)は、渓州の戦いで当時の湖南一帯を占拠していた楚王の馬希範(ば・きはん)と戦った。彭士愁は戦いに敗れた後、天福5(940)年に馬希範と講和を結び、戦争の経緯と講和に関する条項を記した文章を銅柱に刻んだ。渓州銅柱は1961年、故宮、万里の長城などと共に、国務院により第1次全国重点文物保護単位に指定された。(湘西=新華社記者/陳思汗)=2020(令和2)年5月15日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020052701021

  • 2020年05月15日
    中国古代の諸民族の知恵を記録した「渓州銅柱」湖南省

    15日、湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮の風景。中国湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮の銅柱館に保存されている銅製の柱「渓州銅柱(けいしゅうどうちゅう)」は、中央部分が空洞で八角形をしており、高さ約4メートル、重さ2500キロ、2千文字余りの銘文が刻まれている。中国古代の諸民族の自治や管理の知恵を記録した貴重な文物であり、中国西南部の少数民族の政治、経済、文化、軍事などの研究のための重要な物的資料となっている。後晋の天福4(939)年、渓州刺史(しし、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名)の彭士愁(ほう・ししゅう)は、渓州の戦いで当時の湖南一帯を占拠していた楚王の馬希範(ば・きはん)と戦った。彭士愁は戦いに敗れた後、天福5(940)年に馬希範と講和を結び、戦争の経緯と講和に関する条項を記した文章を銅柱に刻んだ。渓州銅柱は1961年、故宮、万里の長城などと共に、国務院により第1次全国重点文物保護単位に指定された。(湘西=新華社記者/陳思汗)=2020(令和2)年5月15日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020052701045

  • 2020年05月15日
    中国古代の諸民族の知恵を記録した「渓州銅柱」湖南省

    15日、湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮にある渓州銅柱のレプリカ。中国湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮の銅柱館に保存されている銅製の柱「渓州銅柱(けいしゅうどうちゅう)」は、中央部分が空洞で八角形をしており、高さ約4メートル、重さ2500キロ、2千文字余りの銘文が刻まれている。中国古代の諸民族の自治や管理の知恵を記録した貴重な文物であり、中国西南部の少数民族の政治、経済、文化、軍事などの研究のための重要な物的資料となっている。後晋の天福4(939)年、渓州刺史(しし、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名)の彭士愁(ほう・ししゅう)は、渓州の戦いで当時の湖南一帯を占拠していた楚王の馬希範(ば・きはん)と戦った。彭士愁は戦いに敗れた後、天福5(940)年に馬希範と講和を結び、戦争の経緯と講和に関する条項を記した文章を銅柱に刻んだ。渓州銅柱は1961年、故宮、万里の長城などと共に、国務院により第1次全国重点文物保護単位に指定された。(湘西=新華社記者/陳思汗)=2020(令和2)年5月15日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020052701070

  • 2020年05月15日
    中国古代の諸民族の知恵を記録した「渓州銅柱」湖南省

    15日、湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮の風景。中国湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮の銅柱館に保存されている銅製の柱「渓州銅柱(けいしゅうどうちゅう)」は、中央部分が空洞で八角形をしており、高さ約4メートル、重さ2500キロ、2千文字余りの銘文が刻まれている。中国古代の諸民族の自治や管理の知恵を記録した貴重な文物であり、中国西南部の少数民族の政治、経済、文化、軍事などの研究のための重要な物的資料となっている。後晋の天福4(939)年、渓州刺史(しし、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名)の彭士愁(ほう・ししゅう)は、渓州の戦いで当時の湖南一帯を占拠していた楚王の馬希範(ば・きはん)と戦った。彭士愁は戦いに敗れた後、天福5(940)年に馬希範と講和を結び、戦争の経緯と講和に関する条項を記した文章を銅柱に刻んだ。渓州銅柱は1961年、故宮、万里の長城などと共に、国務院により第1次全国重点文物保護単位に指定された。(湘西=新華社記者/陳思汗)=2020(令和2)年5月15日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020052700995

  • 2020年05月19日
    中国古代の諸民族の知恵を記録した「渓州銅柱」湖南省

    19日、湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮の銅柱館に展示された渓州銅柱。中国湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮の銅柱館に保存されている銅製の柱「渓州銅柱(けいしゅうどうちゅう)」は、中央部分が空洞で八角形をしており、高さ約4メートル、重さ2500キロ、2千文字余りの銘文が刻まれている。中国古代の諸民族の自治や管理の知恵を記録した貴重な文物であり、中国西南部の少数民族の政治、経済、文化、軍事などの研究のための重要な物的資料となっている。後晋の天福4(939)年、渓州刺史(しし、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名)の彭士愁(ほう・ししゅう)は、渓州の戦いで当時の湖南一帯を占拠していた楚王の馬希範(ば・きはん)と戦った。彭士愁は戦いに敗れた後、天福5(940)年に馬希範と講和を結び、戦争の経緯と講和に関する条項を記した文章を銅柱に刻んだ。渓州銅柱は1961年、故宮、万里の長城などと共に、国務院により第1次全国重点文物保護単位に指定された。(湘西=新華社配信/田婷)=2020(令和2)年5月19日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020052701004

  • 2020年05月19日
    中国古代の諸民族の知恵を記録した「渓州銅柱」湖南省

    19日、湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮の銅柱館に展示された渓州銅柱。中国湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮の銅柱館に保存されている銅製の柱「渓州銅柱(けいしゅうどうちゅう)」は、中央部分が空洞で八角形をしており、高さ約4メートル、重さ2500キロ、2千文字余りの銘文が刻まれている。中国古代の諸民族の自治や管理の知恵を記録した貴重な文物であり、中国西南部の少数民族の政治、経済、文化、軍事などの研究のための重要な物的資料となっている。後晋の天福4(939)年、渓州刺史(しし、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名)の彭士愁(ほう・ししゅう)は、渓州の戦いで当時の湖南一帯を占拠していた楚王の馬希範(ば・きはん)と戦った。彭士愁は戦いに敗れた後、天福5(940)年に馬希範と講和を結び、戦争の経緯と講和に関する条項を記した文章を銅柱に刻んだ。渓州銅柱は1961年、故宮、万里の長城などと共に、国務院により第1次全国重点文物保護単位に指定された。(湘西=新華社配信/田婷)=2020(令和2)年5月19日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020052701040

  • 2020年05月19日
    中国古代の諸民族の知恵を記録した「渓州銅柱」湖南省

    19日、湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮の銅柱館に展示された渓州銅柱。中国湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県芙蓉鎮の銅柱館に保存されている銅製の柱「渓州銅柱(けいしゅうどうちゅう)」は、中央部分が空洞で八角形をしており、高さ約4メートル、重さ2500キロ、2千文字余りの銘文が刻まれている。中国古代の諸民族の自治や管理の知恵を記録した貴重な文物であり、中国西南部の少数民族の政治、経済、文化、軍事などの研究のための重要な物的資料となっている。後晋の天福4(939)年、渓州刺史(しし、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名)の彭士愁(ほう・ししゅう)は、渓州の戦いで当時の湖南一帯を占拠していた楚王の馬希範(ば・きはん)と戦った。彭士愁は戦いに敗れた後、天福5(940)年に馬希範と講和を結び、戦争の経緯と講和に関する条項を記した文章を銅柱に刻んだ。渓州銅柱は1961年、故宮、万里の長城などと共に、国務院により第1次全国重点文物保護単位に指定された。(湘西=新華社配信/田婷)=2020(令和2)年5月19日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020052701093

  • 2021年03月18日
    (26)唐代の古刹、霊山寺を訪ねて広東省汕頭市

    8日、霊山寺境内に安置されている三坪祖師(唐代の禅僧)、韓愈、同寺に土地を寄進した洪大丁(こう・だいてい、霊山寺創建時の潮州刺史)と子孫の像。中国広東省汕頭市潮陽区北西部の銅盂鎮に、同省東部の古刹、霊山寺(霊山護国禅寺)がある。潮陽区の市街地からは25キロ離れている。同寺は、中国禅宗六祖の慧能(えのう)の曽孫弟子に当たる大顛(だいてん)が唐の貞元7(791)年に開いた。大顛は同寺を釈迦が仏法を説いたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえ「霊山」と命名した。霊山寺は歴代王朝によって拡張され、現在は約5千平方メートルの敷地を持つ。大顛祖師塔は「舌鏡塔」とも呼ばれ、高さは2・8メートル、直径は最大1・8メートル。古代インドのストゥーパ様式を模しており、広東省内で数少ない唐代の墓塔として同省の重点保護文物(重要文化財)に指定されている。境内にある留衣亭は、大顛と唐代の文人・政治家、韓愈(かん・ゆ)の友情を今に伝える。元和14(819)年に潮州に左遷された韓愈は、同地で大顛と交流を重ねた。同年10月に潮州から袁州(現在の江西省宜春市一帯)に転任する際には、わざわざ霊山寺に赴き大顛に別れを告げ、大顛もまた寺の外の小さな橋まで韓愈を見送った。韓愈はその時、感動のあまり着ていた官袍を脱いで大顛に記念の品として贈ったとされており、後世の人々は2人の友情を記念して留衣亭を建てた。同寺は「壁蘭(へきらん)」があることでも知られる。建物の壁に生えているランを指し、言い伝えによると、清の康熙45(1706)年に潮陽の信如和尚が霊山寺の補修を担当した際、丹精込めて育てたランの株を思いつきで壁に植えたところ、土もかけず、水や肥料をやらずとも四季を通じて葉を絶やすことがなかったという。壁蘭は「信蘭」とも呼ばれ、現在では寺宝の一つになっている。(汕頭=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年3月18日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021031900238

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