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    2019年12月26日
    中華民国時代の軍閥私邸、閻錫山故居を探訪山西省

    12月26日、閻錫山故居の噴水池。中国山西省忻州(きんしゅう)市定襄(ていじょう)県河辺村には、中華民国時代の軍閥、閻錫山(えん・しゃくざん)の旧私邸があり、ここ数年、観光客の人気を集めている。私邸は1913年頃に建設され、3万8千平方メートル余りの敷地に現在も18区画の中庭建築が残されている。山西省出身の閻錫山は40年間近く同省を支配し、国民政府の行政院長も務めた。清政府の官費留学生として日本に留学したこともあり、陸軍士官学校を卒業している。日本での留学生活は閻錫山に深い印象を残したとされる。(忻州=新華社配信/柴婷)=2019(令和元)年12月26日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

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    2019年12月26日
    中華民国時代の軍閥私邸、閻錫山故居を探訪山西省

    12月26日、閻錫山故居に残る閻錫山自筆の家訓。中国山西省忻州(きんしゅう)市定襄(ていじょう)県河辺村には、中華民国時代の軍閥、閻錫山(えん・しゃくざん)の旧私邸があり、ここ数年、観光客の人気を集めている。私邸は1913年頃に建設され、3万8千平方メートル余りの敷地に現在も18区画の中庭建築が残されている。山西省出身の閻錫山は40年間近く同省を支配し、国民政府の行政院長も務めた。清政府の官費留学生として日本に留学したこともあり、陸軍士官学校を卒業している。日本での留学生活は閻錫山に深い印象を残したとされる。(忻州=新華社配信/柴婷)=2019(令和元)年12月26日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

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    2019年12月26日
    中華民国時代の軍閥私邸、閻錫山故居を探訪山西省

    12月26日、閻錫山故居内の都督府。ロマネスク様式の風格を持つ。中国山西省忻州(きんしゅう)市定襄(ていじょう)県河辺村には、中華民国時代の軍閥、閻錫山(えん・しゃくざん)の旧私邸があり、ここ数年、観光客の人気を集めている。私邸は1913年頃に建設され、3万8千平方メートル余りの敷地に現在も18区画の中庭建築が残されている。山西省出身の閻錫山は40年間近く同省を支配し、国民政府の行政院長も務めた。清政府の官費留学生として日本に留学したこともあり、陸軍士官学校を卒業している。日本での留学生活は閻錫山に深い印象を残したとされる。(忻州=新華社配信/柴婷)=2019(令和元)年12月26日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

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    2019年12月26日
    中華民国時代の軍閥私邸、閻錫山故居を探訪山西省

    12月26日、閻錫山故居の給水塔。中国山西省忻州(きんしゅう)市定襄(ていじょう)県河辺村には、中華民国時代の軍閥、閻錫山(えん・しゃくざん)の旧私邸があり、ここ数年、観光客の人気を集めている。私邸は1913年頃に建設され、3万8千平方メートル余りの敷地に現在も18区画の中庭建築が残されている。山西省出身の閻錫山は40年間近く同省を支配し、国民政府の行政院長も務めた。清政府の官費留学生として日本に留学したこともあり、陸軍士官学校を卒業している。日本での留学生活は閻錫山に深い印象を残したとされる。(忻州=新華社配信/柴婷)=2019(令和元)年12月26日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

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    2019年12月26日
    中華民国時代の軍閥私邸、閻錫山故居を探訪山西省

    12月26日、閻錫山故居の新南院。中国山西省忻州(きんしゅう)市定襄(ていじょう)県河辺村には、中華民国時代の軍閥、閻錫山(えん・しゃくざん)の旧私邸があり、ここ数年、観光客の人気を集めている。私邸は1913年頃に建設され、3万8千平方メートル余りの敷地に現在も18区画の中庭建築が残されている。山西省出身の閻錫山は40年間近く同省を支配し、国民政府の行政院長も務めた。清政府の官費留学生として日本に留学したこともあり、陸軍士官学校を卒業している。日本での留学生活は閻錫山に深い印象を残したとされる。(忻州=新華社配信/柴婷)=2019(令和元)年12月26日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

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    2019年12月26日
    中華民国時代の軍閥私邸、閻錫山故居を探訪山西省

    12月26日、閻錫山故居の須弥壇(しゅみだん)の一部分。中国山西省忻州(きんしゅう)市定襄(ていじょう)県河辺村には、中華民国時代の軍閥、閻錫山(えん・しゃくざん)の旧私邸があり、ここ数年、観光客の人気を集めている。私邸は1913年頃に建設され、3万8千平方メートル余りの敷地に現在も18区画の中庭建築が残されている。山西省出身の閻錫山は40年間近く同省を支配し、国民政府の行政院長も務めた。清政府の官費留学生として日本に留学したこともあり、陸軍士官学校を卒業している。日本での留学生活は閻錫山に深い印象を残したとされる。(忻州=新華社配信/柴婷)=2019(令和元)年12月26日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

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    2019年12月26日
    中華民国時代の軍閥私邸、閻錫山故居を探訪山西省

    12月26日、閻錫山故居の建具に施された木彫。中国山西省忻州(きんしゅう)市定襄(ていじょう)県河辺村には、中華民国時代の軍閥、閻錫山(えん・しゃくざん)の旧私邸があり、ここ数年、観光客の人気を集めている。私邸は1913年頃に建設され、3万8千平方メートル余りの敷地に現在も18区画の中庭建築が残されている。山西省出身の閻錫山は40年間近く同省を支配し、国民政府の行政院長も務めた。清政府の官費留学生として日本に留学したこともあり、陸軍士官学校を卒業している。日本での留学生活は閻錫山に深い印象を残したとされる。(忻州=新華社配信/柴婷)=2019(令和元)年12月26日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

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    2019年12月26日
    中華民国時代の軍閥私邸、閻錫山故居を探訪山西省

    12月26日、閻錫山故居の東花園の中庭にある貴賓室。中国山西省忻州(きんしゅう)市定襄(ていじょう)県河辺村には、中華民国時代の軍閥、閻錫山(えん・しゃくざん)の旧私邸があり、ここ数年、観光客の人気を集めている。私邸は1913年頃に建設され、3万8千平方メートル余りの敷地に現在も18区画の中庭建築が残されている。山西省出身の閻錫山は40年間近く同省を支配し、国民政府の行政院長も務めた。清政府の官費留学生として日本に留学したこともあり、陸軍士官学校を卒業している。日本での留学生活は閻錫山に深い印象を残したとされる。(忻州=新華社配信/柴婷)=2019(令和元)年12月26日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

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    2019年12月26日
    中華民国時代の軍閥私邸、閻錫山故居を探訪山西省

    12月26日、閻錫山故居の正門。中国山西省忻州(きんしゅう)市定襄(ていじょう)県河辺村には、中華民国時代の軍閥、閻錫山(えん・しゃくざん)の旧私邸があり、ここ数年、観光客の人気を集めている。私邸は1913年頃に建設され、3万8千平方メートル余りの敷地に現在も18区画の中庭建築が残されている。山西省出身の閻錫山は40年間近く同省を支配し、国民政府の行政院長も務めた。清政府の官費留学生として日本に留学したこともあり、陸軍士官学校を卒業している。日本での留学生活は閻錫山に深い印象を残したとされる。(忻州=新華社配信/柴婷)=2019(令和元)年12月26日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

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    2019年12月26日
    中華民国時代の軍閥私邸、閻錫山故居を探訪山西省

    12月26日、閻錫山故居に残る孫文(そん・ぶん)が閻錫山に寄せた揮毫を彫った壁。中国山西省忻州(きんしゅう)市定襄(ていじょう)県河辺村には、中華民国時代の軍閥、閻錫山(えん・しゃくざん)の旧私邸があり、ここ数年、観光客の人気を集めている。私邸は1913年頃に建設され、3万8千平方メートル余りの敷地に現在も18区画の中庭建築が残されている。山西省出身の閻錫山は40年間近く同省を支配し、国民政府の行政院長も務めた。清政府の官費留学生として日本に留学したこともあり、陸軍士官学校を卒業している。日本での留学生活は閻錫山に深い印象を残したとされる。(忻州=新華社配信/柴婷)=2019(令和元)年12月26日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

  • 2019年04月11日
    Conflict in Libya

    11 April 2019, Libya, Zawia: Libyan fighters loyal to the self-styled Libyan National Army (LNA), led by Libyan strongman Khalifa Haftar, queue at a detention centre after being captured during battles against forces loyal to the UN-backed Government of National Accord (GNA) of Fayez Serraj. Photo: Stringer/dpa、クレジット:DPA/共同通信イメージズ

  • 2018年02月19日
    Questions To The Government Session - Paris

    Secretary of State in help of the Prime Minister and Government Spokesperson Benjamin Griveaux, Minister of National Education and Youth Jean-Michel Blanquer and Prime Minister Edouard Philippe during the Questions to the government session in the National Assembly, Paris, France on February 19th, 2018 Photo by Henri Szwarc/ABACAPRESS.COM Photo via Newscom、クレジット:ABACA/ニューズコム/共同通信イメージズ

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    2013年06月29日
    カイロでの米英中首脳会談 尖閣は台湾の一部?

    1943年11月、カイロでの会談に臨む(左から)〓(☆草カンムリに将の旧字体)介石中国国民政府主席、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相(UPI=共同)

  • 1999年05月11日
    沖縄県公文書館 公文書から進めるなぞ解き

    )、社会402S、14日付朝刊以降使用、15日付朝刊以降一括使用も可、解禁厳守  琉球列島米国民政府時代の文書などの収集が進む沖縄県公文書館=4月30日、沖縄県南風原町

    撮影: 4月30日、沖縄県南風原町

  • 1998年01月27日
    琉球列島米国民政府 米沖縄統治資料を公開へ

    浦添村(現浦添市)にあった「琉球列島米国民政府」(1969年撮影)(カラー通信B139)

  • 1993年08月30日
    共同首相、平壌へ出発

    シアヌーク殿下と組閣問題などを協議するため、平壌へ向かうカンボジア暫定国民政府のラナリット(左)、フン・センの両共同首相=30日、プノンペンのポチェントン空港(共同)

  • 1993年07月02日
    カンボジア

    シアヌーク殿下が暫定国民政府の内閣を承認=1993年7月2日(共同)PKO

    撮影: 1993年7月2日

  • 1993年06月03日
    シアヌーク殿下 暫定政府の樹立を発表

    暫定政府「カンボジア国民政府」の大統領兼首相に就任するシアヌーク殿下=1993(平成5)年5月22日撮影(共同)(海外71850)(PKO)(カンボジア総選挙)

    撮影: 1993

  • 1991年04月06日
    中山外相 シアヌーク大統領と会談

    6日、会談を前にカンボジア国民政府のシアヌーク大統領(右)と握手する中山外相=1991(平成3)年4月6日、北京市のシアヌーク事務所(共同)(海外57341)

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    1991年03月26日
    会談に臨む両首相 海部、ソン・サン会談

    海部首相との会談に臨むカンボジア国民政府のソン・サン首相(左)=1991(平成3)年3月26日、首相官邸

  • 1990年11月16日
    握手する両大統領 スハルトーシアヌーク会談

    16日、会談を前にインドネシアのスハルト大統領(左)と握手するシアヌーク・カンボジア国民政府大統領=1990(平成2)年11月16日、北京・釣魚台迎賓館(共同)(海外54439)

  • 1990年06月06日

    皇室 28020A ◎天皇陛下、シ殿下と会見 カンボジア国民政府大統領のシアヌーク殿下夫妻と会見される天皇、皇后両陛下=1990年6月6日午前、宮殿・竹の間 (明仁 美智子)(代表撮影)

    撮影: 1990年6月6日午前、宮殿・竹の間 

  • 1990年06月06日
    天皇陛下、シ殿下と会見

    カンボジア国民政府大統領のシアヌーク殿下と会見される天皇陛下=1990年6月6日午前、宮殿・竹の間(明仁) (代表撮影)

    撮影: 1990年6月6日午前、宮殿・竹の間

  • 1990年06月05日
    シアヌーク殿下とサン首相 カンボジア和平東京会議

    共同声明に調印のため宿舎を出る国民政府のソン・サン首相=1990年6月5日午後、東京・内幸町の帝国ホテル(車中、来日)

    撮影: 1990年6月5日午後、東京・内幸町の帝国ホテル

  • 1990年06月05日
    シアヌーク殿下とサン首相 カンボジア和平東京会議

    共同声明に調印のため宿舎を出る国民政府大統領のシアヌーク殿下=1990年6月5日午後、東京・内幸町の帝国ホテル(ソン・サン、来日)

    撮影: 1990年6月5日午後、東京・内幸町の帝国ホテル

  • 1989年10月05日
    (SON SANN) ソン・サン

    カンボジア、民主カンボジア連合政府(国民政府)首相、仏教自由民主党(BLDP)党首=1989(平成元)年3月14日撮影

  • 1983年11月04日
    草野心平

    草野心平、文化、くさの・しんぺい、死去・1988年11月12日、詩人、中華民国国民政府宣伝部顧問、日本現代詩人会会長、日本芸術院会員、読売文学賞受賞、文化勲章受章、文化功労者、勲三等瑞宝章受章=1983(昭和58)年11月4日

    撮影: 1983

  • 1980年02月13日
    草野心平

    草野心平、文化、くさの・しんぺい、死去・1988年11月12日、詩人、中華民国国民政府宣伝部顧問、読売文学賞受賞、日本学士院会員、文化勲章、文化功労者、勲三等瑞宝章受章=1980(昭和55)年2月13日

    撮影: 1980

  • 1965年10月14日
    (りそうじん) 李宗仁

    中国、元国民政府副総理=1965(昭和40)年9月27日撮影

    撮影: 1965

  • 1965年06月24日
    (ほう・もうき) 彭孟緝

    台湾、国民政府参謀総長、総統府参軍長(1965年6月)、駐日大使=1965(昭和40)年6月24日出稿(共同)

  • 1964年06月19日
    中国墓参団帰国

    太原元日本軍兵器厰跡で、国民政府時代の処刑場に祭壇を造った。ヘイに囲まれたポプラ並木がある。今は工人(労働者)住宅がある=出稿1964(昭和39)年6月19日(墓参団代表撮影)(39年内地2657)

  • 1963年05月07日
    池田首相、張群氏と会談

    池田勇人首相(右)と会談する国民政府総統府の張群秘書長=1963(昭和38)年5月7日、首相官邸(38年内地 2145)

  • 1963年05月06日
    大平外相、張群氏と会談

    大平正芳外相(右端)と会談する国民政府総統府の張群秘書長。左端は張〓生駐日大使=1963(昭和38)年5月6日、外務省(〓:ガンダレに萬)(38年内地2124)

  • 1952年02月17日
    河田全権、台湾へ出発

    国民政府との平和条約締結のため、台北に向かう河田全権(タラップ最上段)=1952(昭和27)年2月16日、羽田空港(27年内地436)

  • 1946年10月31日
    トーマス・マッケーブ氏

    在中華民国在外資産清算委員長のトーマス・B・マッケーブ氏。右は国民政府行政院長の宋子文氏=1946(昭和21)年10月(外番号なし)

    撮影: 1946

  • 1946年08月31日
    王世杰氏

    欧州平和会議中華民国代表で国民政府外交部長の王世杰氏=1946(昭和21)年8月(外番号なし)

    撮影: 1946

  • 1946年05月17日
    張治中二級上将

    国民政府軍事委員会政治部部長の張治中二級上将=撮影年月日不明(外番号なし)

    撮影: 撮影年月日不明

  • 1946年05月17日
    徐永昌二級上将

    国民政府軍事委員会軍令部部長の徐永昌二級上将=撮影年月日不明(外番号なし)

    撮影: 撮影年月日不明

  • 1946年05月17日
    白崇禧一級上将

    国民政府軍事委員会副参謀総長の白崇禧一級上将=撮影年月日不明(外番号なし)

    撮影: 撮影年月日不明

  • 1945年10月05日
    顧維鈞氏

    国民政府代表の顧維鈞氏=1945(昭和20)年10月5日(連番号なし)

    撮影: 1945

  • 1944年11月12日
    汪首席の遺骸南京へ

    飛行機に安置され、南京へ向かう国民政府の汪兆銘首席の遺骸=1944(昭和19)年11月12日、名古屋近郊の小牧飛行場(19年内地番号なし)

    撮影: 1944

  • 1942年03月10日
    第1702号 「同盟写真特報」

    我等の祖父も我等の父もかく戦った!我等も戦い抜くのだ米英撃滅の一戦を(1)我等が祖父達たちは日清戦役にかく戦い勝った(図は牛荘や市街戦)(2)そして世界最大の陸軍国として誇ったロシアと戦い、連戦連勝明治38年3月10日堂々奉天にに入城したのである(3)そして満州事変、我等の父や兄は銃を取って○起し(4)戦火は上海に飛んだ、ここでも日の御旗の行くところ燦たる武勲は樹立された(5)そして支那事変、我等は聖戦5年東亜新秩序建設のために戦い、首都南京城頭に日の御旗を翻した(6)汪主席の下、新生中国国民政府が誕生し歴史的な発足を行ったが、しかし我等の真の敵は重慶の〓(☆草カンムリに将の旧字体)介石ではなかったのだ(7)今こそ撃滅せよ!!世界人類の敵米英!!昭和16年12月8日、我が無敵海鷲はハワイを急襲、米太平洋主力艦隊を覆滅した(海軍省許可済第571号)(8)越えて1月2日、フィリピンの首都マニラに突入した(9)そして2月15日、イギリスが恃む東洋侵略の基地シンガポールを攻略した。しかし戦いは勝ったのではない!一億総○起して行くのだワシントンへ!!ロンドンへ!!、昭和17年3月10日(火曜日)第1702号(「支那事変」は原文表記のままです)

  • 1941年12月27日
    第1633号 「同盟写真特報」

    世界新秩序建設へ逞しき日本進撃紀元二千六百一年乃記録(1)上陸第一夜を車中で過ごした新生中国国民政府主席汪精衛氏は6月17日、駅頭ホームを飾る日華大国旗のはためき爽やかなうちに晴れの帝都入りをなした(2)聖戦すでに4年、北支に点火せる炎は遂に戦いの元凶米、英をして日本をたたしむるの止むなきに至った、支那事変より大東亜戦争へ、大東亜建設へ、皇軍は征く(3)ドイツ国民の嵐のような熱狂のうちにベルリン入りした松岡外相は、3月28日総統官邸における公式午餐会でヒトラー総統に迎えられ枢軸の固き握手を交わした(4)日仏印(フランス領インドシナ)共同防衛の成立にもとづき、我が陸海軍の精衛は7月29日堂々艦船をつらねて南部仏印のサイゴン及び同附近に平和裡進駐した(5)マレーの海底に撃沈せしめられた英戦艦プリンス・オブ・ウエールズ号甲板上にルーズベルト米大統領、チャーチル英首相両巨頭が8月10日会見、何を語り、何を策せしか、今日にして見れば笑止の二字に尽きる(6)西欧の独裁的地位を電撃的獲得せしドイツは突如、6月23日午前5時を期して、ソ連に宣戦布告、怒濤のごとき大軍は一挙に国境を突破、猛進劇を開始した(7)11月18日緊張せる世界情勢下第三次近衛内閣崩壊後、組閣の大命は東條陸相に降下、東條陸相は直ちに組閣を完了、信任状を奉呈した(8)12月8日隠忍度あり、断固米、英膺懲(ようちょう)の火蓋を切った皇軍は開戦劈頭早くも米、太平洋艦隊を撃滅、比島にマニラに香港に世紀の猛進を続けている、昭和16年12月12日海軍省検閲済乙第1599号、昭和16年12月27日(土曜日)第1633号(「支那事変」原文表記のまま)

  • 1933年08月25日
    日本電報通信社資料

    プレジデントジェファーソン号で25日に横浜に寄港した南京国民政府の宗子文氏=1933(昭和8)年8月25日(日本電報通信社撮影)

    撮影: 1933

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    1933年07月01日
    (かわしま・よしこ) 川島芳子

    日中戦争下で男装のスパイとして活躍、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた。後に、北京で国民政府軍により逮捕、銃殺されたといわれる。写真左が川島芳子=1933(昭和8)年頃撮影(複写)

    撮影: 1933

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    1933年04月26日

    M_6787 ◎川島芳子(かわしま・よしこ) 日中戦争下男装のスパイとして活躍、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた。後に北京で国民政府軍により逮捕、銃殺されたといわれる=1933(昭和8)年頃撮影、複写(人物18900)

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    1933年04月25日

    M_6790 ◎川島芳子(かわしま・よしこ) 日中戦争下に男装のスパイとして活躍、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた。後に北京で国民政府軍により逮捕、銃殺されたといわれる=1933(昭和8)年頃撮影、複写(人物18900)

  • 1933年03月06日

    M_6788 ◎川島芳子(かわしま・よしこ) 日中戦争下に男装のスパイとして活躍、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた。後に北京で国民政府軍により逮捕、銃殺されたといわれる=1933(昭和8)年頃撮影(複写)

  • 1933年01月01日

    M_6786 ◎川島芳子(かわしま・よしこ) 日中戦争下に男装のスパイとして活躍、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた。後に北京で国民政府軍により逮捕、銃殺されたといわれる=1933(昭和8)年頃撮影

  • 1931年12月31日
    President Chiang Kai-Shek

    Hong Kong, China: c. 1931 President Chiang Kai-Shek of the Nationalist Government sent a telegram to the insurgent Canton government in which he conditionally offered to resign and suggested that all China unite in declaring war upon Japan.、クレジット:Underwood Archives/Universal Images Group/共同通信イメージズ

  • 1931年12月31日
    General Chiang Kai-Shek

    Shanghai, China: 1931 General Chiang Kai-Shek, President of the Nationalist Government of China, has issued a statement urging the Chinese people to remain calm in the face of Japan‘s invasion of Manchuria, and called upon the League of Nations Council to grant justice to China.、クレジット:Underwood Archives/Universal Images Group/共同通信イメージズ

  • 1931年09月17日
    日本電報通信社資料

    国民政府への国書奉呈式に向かう重光葵駐支公使(手前左から2人目)=1931(昭和6)年9月14日、南京の大礼堂(日本電報通信社撮影)

  • 1930年05月18日
    日本電報通信社資料

    南京国民政府の蒋介石主席=1930(昭和5)年5月18日配信(撮影地、撮影月日不明)(日本電報通信社配信)

    撮影: 1930

  • 1929年12月20日
    日本電報通信社資料

    世界海軍視察の第一歩として来日し、視察を終え米国に向かう支那(中国)国民政府の杜錫珪海軍大将(中央)=1929(昭和4)年12月20日(日本電報通信社撮影)

  • 1929年11月13日
    日本電報通信社資料

    世界海軍視察の第一歩として来日した支那(中国)国民政府の杜錫珪海軍大将=1929(昭和4)年11月13日、東京・帝国ホテル(日本電報通信社撮影)

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