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00:45.592021年02月05日「新華社」福建省寄贈の「世界平和の鐘」、長崎県興福寺に到着中国福建省が友好県の長崎県に寄贈した梵鐘「世界平和の鐘」が2日、長崎市の興福寺へ運ばれた。梵鐘は隠元禅師東渡366周年と興福寺開創400周年を記念して鋳造されたもので、昨年11月12日、同省福清市から日本に向けて「出発」した。福建省と長崎県は、39年前に友好省県関係を結び、近年黄檗文化交流が盛んに行われた。福建省福清出身の明の臨済宗の高僧、隠元禅師は明末に長崎の興福寺逸然住持や唐人らの招請により日本に渡り、長崎の興福寺や崇福寺の住持をつとめ、その後、京都の宇治で萬福寺を開創し、日本仏教の一派、臨済宗黄檗派の開祖となった。隠元禅師と文化人らが日本に伝えた仏教理論、建築技術、彫刻、書と絵画、飲食・医薬、印刷、煎茶道、音楽などは日本で黄檗文化と呼ばれ、中日文化交流の重要なきずなとなった。(興福寺提供、記者/魏培全) =配信日: 2021(令和3)年2月5日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021020601189
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01:01.572021年02月28日「新華社」福建省寄贈の「世界平和の鐘」設置完了長崎・興福寺中国福建省から長崎県の興福寺に寄贈された梵鐘「世界平和の鐘」の設置作業が26日完了し、本堂横の鐘鼓楼(しょうころう)1階に吊るされた。同寺は1620年に創建され、中日文化交流の長い歴史を見守ってきた。寺院にはかつて、第2代住職の黙子如定(もくすにょじょう)禅師の誓願による、清代初期の華僑が共同で寄贈した梵鐘があった。鐘は1820年に再鋳造されたが、第2次世界大戦中に武器製造のために供出された。2019年11月、于偉国(う・いこく)福建省委員会書記(当時)は代表団を率いて長崎県を訪問し、興福寺を見学した際に、梵鐘がないことを知り、中村法道長崎県知事との会見の席で、福建省が新しい鐘を鋳造し、中日友好の証として興福寺に贈ることを伝えた。設置された梵鐘は直径約1・2メートル、高さ約2メートルで、重さ約2・5トン。同寺の松尾法道第32代住職(70)は「第2次世界大戦中、興福寺は原爆の影響を受け、ほぼ壊滅状態となり、先代の住職が数十年かけて建物を一つずつ修復してきたが、梵鐘はないままだった。梵鐘が戻った今、やっと戦争が終わったと思える」と語った。1654年、当時63歳の明の高僧・隠元(いんげん)禅師は、長崎興福寺の逸然性融住職や唐人らに招かれ、弟子らを連れて渡来し、興福寺に晋山し、住職となった。寺院には、「東明山」や「初登宝地」の扁額、「黄檗開祖国師三幅対」などの隠元禅師の書を所蔵している。隠元禅師はその後、後水尾法皇や徳川幕府の庇護を受け、京都・宇治に日本三大禅宗の一つ、臨済宗黄檗派(明治以降は黄檗宗)を開いた。松尾氏は25歳で住職となってから6回にわたり訪中し、黄檗文化ゆかりの地を訪ね、隠元禅師の足跡を辿る活動を行った。また、福建省福州市で開かれた中日黄檗文化交流大会、同省莆田市での世界仏教シンポジウム、長崎での「隠元禅師と黄檗文化」をテーマとしたシンポジウムなどに携わった。(記者/冮冶、郭威、楊光、張旌) =配信日: 2021(令和3)年2月28日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021030103799
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