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「陸秀夫」の写真・グラフィックス・映像
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WEB不可2021年04月04日南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、宋少帝陵前に立つ「深圳市重点文物保護単位」標識碑の裏面。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)=配信日:2021(令和3)年4月4日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040705883
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WEB不可2021年04月06日(10)南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、宋少帝陵の祭祀場の裏側から見た陵園。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年4月6日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040610730
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WEB不可2021年04月06日(11)南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、宋少帝陵で焼香する参観者。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年4月6日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040610747
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WEB不可2021年04月06日(3)南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、宋少帝陵入り口に立つ石碑の刻字。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年4月6日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040610413
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WEB不可2021年04月06日(2)南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、宋少帝陵の入り口。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年4月6日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040610415
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WEB不可2021年04月06日(14)南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、宋少帝陵前に立つ「深圳市重点文物保護単位」標識碑。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年4月6日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040610753
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WEB不可2021年04月06日(6)南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、宋少帝陵の牌坊(はいぼう)。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年4月6日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040610404
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WEB不可2021年04月06日(5)南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、宋少帝陵の参道に埋め込まれた銘刻。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年4月6日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040610406
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WEB不可2021年04月06日(7)南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、宋少帝陵の祭祀(さいし)場。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年4月6日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040610409
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WEB不可2021年04月06日(4)南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、宋少帝陵の入り口から望む陵園の全景。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年4月6日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040610410
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WEB不可2021年04月06日(8)南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、宋少帝陵の香炉と焼香塔。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年4月6日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040610412
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WEB不可2021年04月06日(9)南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、幼帝を背負い海に身を投げる陸秀夫の像。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年4月6日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040610416
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WEB不可2021年04月06日(12)南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、崖山の戦いの歴史が刻まれた石碑。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年4月6日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040610749
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WEB不可2021年04月06日(13)南宋最後の皇帝が眠る宋少帝陵を訪ねて広東省深圳市4日、宋少帝陵周辺の様子。中国広東省深圳市南山区の招商街道赤湾村少帝路、赤湾公園付近に、南宋最後の皇帝少帝・趙昺(ちょう・へい)が眠る宋少帝陵がある。同省にある唯一の宋皇帝陵で、同市の第1次重点文物保護単位(重要文化財に相当)に登録されている。南宋末期、宋軍が崖山の戦いで元軍に敗れると、左丞相の陸秀夫(りく・しゅうふ)は幼帝趙昺を抱いて海に身を投げた。その後、赤湾に流れ着いた幼帝の遺体を小南山麓の古寺の老僧が見つけ、同山の南麓に手厚く埋葬したという。(深圳=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2021(令和3)年4月6日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2021040610751
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WEB不可2023年05月22日(13)南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて広東省珠海市中山市南区沙涌村の「宋帝遺跡」牌坊(はいぼう)。(2月8日撮影)中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙湧郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。(珠海=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2023(令和5)年5月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2023052206527
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WEB不可2023年05月22日(1)南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて広東省珠海市珠海市斗門区小赤坎新村付近にある大赤坎村。(2月8日撮影)中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙湧郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(広東省江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。(珠海=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2023(令和5)年5月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2023052206483
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WEB不可2023年05月22日(3)南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて広東省珠海市馬南宝墓周辺の様子。(2月8日撮影)中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙湧郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。(珠海=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2023(令和5)年5月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2023052206485
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WEB不可2023年05月22日(6)南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて広東省珠海市馬南宝墓前の道路。(2月8日撮影)中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙湧郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。(珠海=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2023(令和5)年5月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2023052206503
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WEB不可2023年05月22日(4)南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて広東省珠海市馬南宝墓。(2月8日撮影)中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙湧郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。(珠海=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2023(令和5)年5月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2023052206486
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WEB不可2023年05月22日(5)南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて広東省珠海市馬南宝墓と祭壇。(2月8日撮影)中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙涌郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。(珠海=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2023(令和5)年5月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2023052206499
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WEB不可2023年05月22日(10)南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて広東省珠海市馬南宝墓周辺の様子。(2月8日撮影)中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙湧郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。(珠海=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2023(令和5)年5月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2023052206525
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WEB不可2023年05月22日(9)南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて広東省珠海市馬南宝墓周辺の様子。(2月8日撮影)中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙湧郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。(珠海=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2023(令和5)年5月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2023052206526
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WEB不可2023年05月22日(8)南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて広東省珠海市馬南宝墓。(2月8日撮影)中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙湧郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。(珠海=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2023(令和5)年5月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2023052206534
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WEB不可2023年05月22日(7)南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて広東省珠海市馬南宝墓前にある文化財標識の石碑。(2月8日撮影)中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙湧郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。(珠海=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2023(令和5)年5月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2023052206504
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WEB不可2023年05月22日(2)南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて広東省珠海市黄楊山金台寺の牌坊(はいぼう)。(2月8日撮影)中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙湧郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。(珠海=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2023(令和5)年5月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2023052206484
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WEB不可2023年05月22日(11)南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて広東省珠海市「宋工部待(侍)郎配享大忠諱南宝馬公之墓」の碑刻。(2月8日撮影)中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙湧郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。(珠海=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2023(令和5)年5月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2023052206528
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WEB不可2023年05月22日(12)南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて広東省珠海市中山市南区沙涌村にある馬南宝像。(2月8日撮影)中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙湧郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。(珠海=新華社配信/畢建鴿)= 配信日: 2023(令和5)年5月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ
商品コード: 2023052206529
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