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  •  (7)南昌-長沙1千キロボルト超高電圧交流プロジェクトが稼働
    2021年12月29日
    (7)南昌-長沙1千キロボルト超高電圧交流プロジェクトが稼働

    26日、江西省南昌市進賢県にある贛江(かんこう)1千キロボルト変電所。(小型無人機から)中国の江西省南昌市と湖南省長沙市を結ぶ南昌-長沙1千キロボルト超高電圧(UHV)交流プロジェクトが26日、正式に稼働した。第14次5カ年規画(2021~25年)期間に建設された初めてのUHV送変電プロジェクトとなる。同プロジェクトは、送電網の外部からの電力受け入れ能力と安全性・安定性を高め、華中地域におけるエネルギー資源の最適配置能力を強化し、電力の安定供給を保障して、長江経済ベルト発展戦略を実施する上で重要な意義がある。(南昌=新華社配信/習雨同)= 配信日: 2021(令和3)年12月29日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2021122910964

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    01:18.97
    2020年12月19日
    「新華社」トラック炎上、消防士が迅速消火河北省

    中国河北省邢台(けいだい)市清河県贛江(かんこう)街で16日夕方、火のついた小型トラックが消防救援ステーション走り込んで来た。消防隊員はすぐさま車庫に止めてあった消防車にホースをつなぎ、消火を開始。火は1分足らずで消し止められた。小型トラックは自動車用フィルターエレメントを載せており、同県西外環状道路に差し掛かったところで積み荷から出火。運転手は近くに消防救援ステーションがあることを知っていたため、そのまま運転を続けた。消防隊員の迅速な行動により大規模な損害を免れ、車体にはほとんど被害がなかったという。(記者/李継偉) =配信日: 2020(令和2)年12月19日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020122104707

  •  三国文化を今に伝える鄴城博物館河北省臨漳県
    2020年11月22日
    三国文化を今に伝える鄴城博物館河北省臨漳県

    22日、邯鄲市臨漳県の鄴城博物館で展示されている鄴城の復元模型。中国河北省邯鄲(かんたん)市臨漳県は、古くは鄴(ぎょう)と呼ばれ、春秋時代に斉の桓公(かんこう)が都市を築いて以来、2700年余りの歴史を持つ。後漢末の群雄割拠の時代には袁紹(えん・しょう)の本拠地となり、官渡の戦いで曹操(そう・そう)が袁紹を破ると、同地を拠点に北方を統一した。曹操は鄴に16年にわたり居住し、その間都市を整備するとともに、城の北西部に城壁を基礎とした三つの宮殿「銅雀台」「金鳳台」「氷井台」を造営した。曹操が築いた鄴城は、斉桓公の鄴城の北側にあるため鄴北城と呼ばれ、中軸線から左右対称に建物を配置する中国の都城建築様式の先駆けとなった。同様式はその後、隋唐時代へと踏襲されたことから、中国古代都城建築史上の節目の一つとされている。中国国内だけでなく、日本や韓国の都城建設にも大きな影響を与えた。(邯鄲=新華社記者/趙鴻宇)=2020(令和2)年11月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020112709438

  •  三国文化を今に伝える鄴城博物館河北省臨漳県
    2020年11月22日
    三国文化を今に伝える鄴城博物館河北省臨漳県

    22日、邯鄲市臨漳県の鄴城博物館で展示されている銅雀台青石螭首(ちしゅ、螭は中国神話の霊獣)。中国河北省邯鄲(かんたん)市臨漳県は、古くは鄴(ぎょう)と呼ばれ、春秋時代に斉の桓公(かんこう)が都市を築いて以来、2700年余りの歴史を持つ。後漢末の群雄割拠の時代には袁紹(えん・しょう)の本拠地となり、官渡の戦いで曹操(そう・そう)が袁紹を破ると、同地を拠点に北方を統一した。曹操は鄴に16年にわたり居住し、その間都市を整備するとともに、城の北西部に城壁を基礎とした三つの宮殿「銅雀台」「金鳳台」「氷井台」を造営した。曹操が築いた鄴城は、斉桓公の鄴城の北側にあるため鄴北城と呼ばれ、中軸線から左右対称に建物を配置する中国の都城建築様式の先駆けとなった。同様式はその後、隋唐時代へと踏襲されたことから、中国古代都城建築史上の節目の一つとされている。中国国内だけでなく、日本や韓国の都城建設にも大きな影響を与えた。(邯鄲=新華社記者/趙鴻宇)=2020(令和2)年11月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020112709685

  •  三国文化を今に伝える鄴城博物館河北省臨漳県
    2020年11月22日
    三国文化を今に伝える鄴城博物館河北省臨漳県

    22日、邯鄲市臨漳県の鄴城博物館を見学する来場者。中国河北省邯鄲(かんたん)市臨漳県は、古くは鄴(ぎょう)と呼ばれ、春秋時代に斉の桓公(かんこう)が都市を築いて以来、2700年余りの歴史を持つ。後漢末の群雄割拠の時代には袁紹(えん・しょう)の本拠地となり、官渡の戦いで曹操(そう・そう)が袁紹を破ると、同地を拠点に北方を統一した。曹操は鄴に16年にわたり居住し、その間都市を整備するとともに、城の北西部に城壁を基礎とした三つの宮殿「銅雀台」「金鳳台」「氷井台」を造営した。曹操が築いた鄴城は、斉桓公の鄴城の北側にあるため鄴北城と呼ばれ、中軸線から左右対称に建物を配置する中国の都城建築様式の先駆けとなった。同様式はその後、隋唐時代へと踏襲されたことから、中国古代都城建築史上の節目の一つとされている。中国国内だけでなく、日本や韓国の都城建設にも大きな影響を与えた。(邯鄲=新華社記者/趙鴻宇)=2020(令和2)年11月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020112709411

  •  三国文化を今に伝える鄴城博物館河北省臨漳県
    2020年11月22日
    三国文化を今に伝える鄴城博物館河北省臨漳県

    22日、邯鄲市臨漳県の鄴城博物館で展示されている東魏・北斉時代のウサギをかたどった敷物の重石。中国河北省邯鄲(かんたん)市臨漳県は、古くは鄴(ぎょう)と呼ばれ、春秋時代に斉の桓公(かんこう)が都市を築いて以来、2700年余りの歴史を持つ。後漢末の群雄割拠の時代には袁紹(えん・しょう)の本拠地となり、官渡の戦いで曹操(そう・そう)が袁紹を破ると、同地を拠点に北方を統一した。曹操は鄴に16年にわたり居住し、その間都市を整備するとともに、城の北西部に城壁を基礎とした三つの宮殿「銅雀台」「金鳳台」「氷井台」を造営した。曹操が築いた鄴城は、斉桓公の鄴城の北側にあるため鄴北城と呼ばれ、中軸線から左右対称に建物を配置する中国の都城建築様式の先駆けとなった。同様式はその後、隋唐時代へと踏襲されたことから、中国古代都城建築史上の節目の一つとされている。中国国内だけでなく、日本や韓国の都城建設にも大きな影響を与えた。(邯鄲=新華社記者/趙鴻宇)=2020(令和2)年11月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020112709366

  •  三国文化を今に伝える鄴城博物館河北省臨漳県
    2020年11月22日
    三国文化を今に伝える鄴城博物館河北省臨漳県

    22日、邯鄲市臨漳県の鄴城博物館で展示されている漢・魏時代の陶魁(とうかい、陶製お玉杓子)。中国河北省邯鄲(かんたん)市臨漳県は、古くは鄴(ぎょう)と呼ばれ、春秋時代に斉の桓公(かんこう)が都市を築いて以来、2700年余りの歴史を持つ。後漢末の群雄割拠の時代には袁紹(えん・しょう)の本拠地となり、官渡の戦いで曹操(そう・そう)が袁紹を破ると、同地を拠点に北方を統一した。曹操は鄴に16年にわたり居住し、その間都市を整備するとともに、城の北西部に城壁を基礎とした三つの宮殿「銅雀台」「金鳳台」「氷井台」を造営した。曹操が築いた鄴城は、斉桓公の鄴城の北側にあるため鄴北城と呼ばれ、中軸線から左右対称に建物を配置する中国の都城建築様式の先駆けとなった。同様式はその後、隋唐時代へと踏襲されたことから、中国古代都城建築史上の節目の一つとされている。中国国内だけでなく、日本や韓国の都城建設にも大きな影響を与えた。(邯鄲=新華社記者/趙鴻宇)=2020(令和2)年11月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020112709306

  •  三国文化を今に伝える鄴城博物館河北省臨漳県
    2020年11月22日
    三国文化を今に伝える鄴城博物館河北省臨漳県

    22日、邯鄲市臨漳県の鄴城博物館で展示されている漢・魏時代の陶製の豚小屋。中国河北省邯鄲(かんたん)市臨漳県は、古くは鄴(ぎょう)と呼ばれ、春秋時代に斉の桓公(かんこう)が都市を築いて以来、2700年余りの歴史を持つ。後漢末の群雄割拠の時代には袁紹(えん・しょう)の本拠地となり、官渡の戦いで曹操(そう・そう)が袁紹を破ると、同地を拠点に北方を統一した。曹操は鄴に16年にわたり居住し、その間都市を整備するとともに、城の北西部に城壁を基礎とした三つの宮殿「銅雀台」「金鳳台」「氷井台」を造営した。曹操が築いた鄴城は、斉桓公の鄴城の北側にあるため鄴北城と呼ばれ、中軸線から左右対称に建物を配置する中国の都城建築様式の先駆けとなった。同様式はその後、隋唐時代へと踏襲されたことから、中国古代都城建築史上の節目の一つとされている。中国国内だけでなく、日本や韓国の都城建設にも大きな影響を与えた。(邯鄲=新華社記者/趙鴻宇)=2020(令和2)年11月22日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2020112709335

  •  「新華社」古代東アジアの都城建設の手本「鄴城遺跡」を訪ねて河北省邯鄲市
    00:57.71
    2019年11月11日
    「新華社」古代東アジアの都城建設の手本「鄴城遺跡」を訪ねて河北省邯鄲市

    中国河北省邯鄲(かんたん)市臨漳(りんしょう)県西南部にある鄴城(ぎょうじょう)遺跡は「三国ゆかりの地、六朝時代の古都」と呼ばれる。鄴城の建設に当たっては、これまでの都城における宮殿の分散配置や交通の不便さなどの弊害が改められ、それ以降の中国や周辺諸国の都城建設に深い影響を与えた。そのため、鄴城は古代東アジアの都城の「手本」とされている。臨漳県はかつて鄴と呼ばれ、春秋時代に斉の桓公(かんこう)が都市を築いたのが始まりとされる。後漢末には魏公、さらに魏王に封じられた曹操(そう・そう)が鄴城を本拠地とした。曹魏鄴城は綿密な計画に基づき建設されており、宮城と役所、民家は明確に区分し、中軸線を中心とした左右対称の配置、機能別のエリア構成、単一の宮城という特徴を持つ。宮城部分の西側には文人墨客の詩歌に詠まれた「銅雀三台」がある。宮城西側城壁を基礎にとして築かれた楼台で、城の防衛と王族の安全確保、詩宴を目的としている。鄴城の革新的な建設はその後、古都長安や洛陽、さらには元・明・清代の都城建設に深く影響を及ぼし、古代の日本や朝鮮半島の都城建設でも参考にされた。(記者/岳文婷)<映像内容>鄴城遺跡の風景、模型など、撮影日:撮影日不明、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019111802274

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    2019年10月14日
    江西省、干ばつオレンジ警報発令贛江南昌区間は水位低下

    14日、贛江南昌区間で水泳禁止の看板の先に広がる砂地。中国江西省気候センターは14日午後4時、干ばつへの警戒を呼び掛けるオレンジ警報(上から2番目のレベル)を発令した。連日の少雨で、贛江(かんこう)の同省南昌区間の水位が11・57メートルまで下がり、広範囲にわたって砂地が水面に露出している。同省気象部門の統計によると、7月下旬から10月初めにかけて、省内の平均降雨量は96ミリで、平年降水量より約70%少なかった。同省水利部門は現在、科学的な管理調整を進め、積極的に水を引いて干ばつ防止対策を講じている。南昌市、九江市、上饒市、景徳鎮市の4設区市(区を持つ市)の13県(市、区)では、計9717万6千立方メートルの水を引き、123万ムー(8万2千ヘクタール)余りの灌漑を保障している。(南昌=新華社記者/周密)=2019(令和元)年10月14日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019101605337

  •  空から望む張飛廟重慶市雲陽県
    2019年07月31日
    空から望む張飛廟重慶市雲陽県

    7月31日、空から見た張飛廟。(小型無人機から)蜀漢(221年~263年)末期に建てられ、張桓侯(ちょうかんこう)廟とも呼ばれる「張飛廟」は、1700年余りの歴史を持ち、今では中国の全国重点文物保護単位(国の重要文化財)と国家4A級(上から2番目)観光地に指定されている。同廟は中国重慶市雲陽県の旧県城(県政府所在地)対岸、飛鳳山(ひほうさん)の麓にあり、三国時代の名将、張飛の首が埋葬されていると伝えられている。この重要な歴史文化遺産を保護するため、同廟は「文化財の原状は変えない」という原則に基づき、三峡ダムの建設期間中に32キロ離れた同県盤竜街道竜安社区(コミュニティー)に移転・再建された。また、「山に寄り添い、岩の上にあり、川を望む」という地理的な特徴が維持されたことから、三峡ダムエリア最大の「移民」とも呼ばれている。再建後は2003年7月から再び公開されている。(雲陽=新華社記者/王全超)=2019(令和元)年7月31日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019080501329

  •  空から望む張飛廟重慶市雲陽県
    2019年07月31日
    空から望む張飛廟重慶市雲陽県

    7月31日、空から見た張飛廟。(小型無人機から)蜀漢(221年~263年)末期に建てられ、張桓侯(ちょうかんこう)廟とも呼ばれる「張飛廟」は、1700年余りの歴史を持ち、今では中国の全国重点文物保護単位(国の重要文化財)と国家4A級(上から2番目)観光地に指定されている。同廟は中国重慶市雲陽県の旧県城(県政府所在地)対岸、飛鳳山(ひほうさん)の麓にあり、三国時代の名将、張飛の首が埋葬されていると伝えられている。この重要な歴史文化遺産を保護するため、同廟は「文化財の原状は変えない」という原則に基づき、三峡ダムの建設期間中に32キロ離れた同県盤竜街道竜安社区(コミュニティー)に移転・再建された。また、「山に寄り添い、岩の上にあり、川を望む」という地理的な特徴が維持されたことから、三峡ダムエリア最大の「移民」とも呼ばれている。再建後は2003年7月から再び公開されている。(雲陽=新華社記者/王全超)=2019(令和元)年7月31日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019080501334

  •  空から望む張飛廟重慶市雲陽県
    2019年07月31日
    空から望む張飛廟重慶市雲陽県

    7月31日、空から見た張飛廟。(小型無人機から)蜀漢(221年~263年)末期に建てられ、張桓侯(ちょうかんこう)廟とも呼ばれる「張飛廟」は、1700年余りの歴史を持ち、今では中国の全国重点文物保護単位(国の重要文化財)と国家4A級(上から2番目)観光地に指定されている。同廟は中国重慶市雲陽県の旧県城(県政府所在地)対岸、飛鳳山(ひほうさん)の麓にあり、三国時代の名将、張飛の首が埋葬されていると伝えられている。この重要な歴史文化遺産を保護するため、同廟は「文化財の原状は変えない」という原則に基づき、三峡ダムの建設期間中に32キロ離れた同県盤竜街道竜安社区(コミュニティー)に移転・再建された。また、「山に寄り添い、岩の上にあり、川を望む」という地理的な特徴が維持されたことから、三峡ダムエリア最大の「移民」とも呼ばれている。再建後は2003年7月から再び公開されている。(雲陽=新華社記者/王全超)=2019(令和元)年7月31日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019080501372

  •  空から望む張飛廟重慶市雲陽県
    2019年07月31日
    空から望む張飛廟重慶市雲陽県

    7月31日、空から見た張飛廟。(小型無人機から)蜀漢(221年~263年)末期に建てられ、張桓侯(ちょうかんこう)廟とも呼ばれる「張飛廟」は、1700年余りの歴史を持ち、今では中国の全国重点文物保護単位(国の重要文化財)と国家4A級(上から2番目)観光地に指定されている。同廟は中国重慶市雲陽県の旧県城(県政府所在地)対岸、飛鳳山(ひほうさん)の麓にあり、三国時代の名将、張飛の首が埋葬されていると伝えられている。この重要な歴史文化遺産を保護するため、同廟は「文化財の原状は変えない」という原則に基づき、三峡ダムの建設期間中に32キロ離れた同県盤竜街道竜安社区(コミュニティー)に移転・再建された。また、「山に寄り添い、岩の上にあり、川を望む」という地理的な特徴が維持されたことから、三峡ダムエリア最大の「移民」とも呼ばれている。再建後は2003年7月から再び公開されている。(雲陽=新華社記者/王全超)=2019(令和元)年7月31日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019080501392

  •  空から望む張飛廟重慶市雲陽県
    2019年07月31日
    空から望む張飛廟重慶市雲陽県

    7月31日、空から見た張飛廟。(小型無人機から)蜀漢(221年~263年)末期に建てられ、張桓侯(ちょうかんこう)廟とも呼ばれる「張飛廟」は、1700年余りの歴史を持ち、今では中国の全国重点文物保護単位(国の重要文化財)と国家4A級(上から2番目)観光地に指定されている。同廟は中国重慶市雲陽県の旧県城(県政府所在地)対岸、飛鳳山(ひほうさん)の麓にあり、三国時代の名将、張飛の首が埋葬されていると伝えられている。この重要な歴史文化遺産を保護するため、同廟は「文化財の原状は変えない」という原則に基づき、三峡ダムの建設期間中に32キロ離れた同県盤竜街道竜安社区(コミュニティー)に移転・再建された。また、「山に寄り添い、岩の上にあり、川を望む」という地理的な特徴が維持されたことから、三峡ダムエリア最大の「移民」とも呼ばれている。再建後は2003年7月から再び公開されている。(雲陽=新華社記者/王全超)=2019(令和元)年7月31日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019080501441

  •  空から望む張飛廟重慶市雲陽県
    2019年07月31日
    空から望む張飛廟重慶市雲陽県

    7月31日、空から見た張飛廟。(小型無人機から)蜀漢(221年~263年)末期に建てられ、張桓侯(ちょうかんこう)廟とも呼ばれる「張飛廟」は、1700年余りの歴史を持ち、今では中国の全国重点文物保護単位(国の重要文化財)と国家4A級(上から2番目)観光地に指定されている。同廟は中国重慶市雲陽県の旧県城(県政府所在地)対岸、飛鳳山(ひほうさん)の麓にあり、三国時代の名将、張飛の首が埋葬されていると伝えられている。この重要な歴史文化遺産を保護するため、同廟は「文化財の原状は変えない」という原則に基づき、三峡ダムの建設期間中に32キロ離れた同県盤竜街道竜安社区(コミュニティー)に移転・再建された。また、「山に寄り添い、岩の上にあり、川を望む」という地理的な特徴が維持されたことから、三峡ダムエリア最大の「移民」とも呼ばれている。再建後は2003年7月から再び公開されている。(雲陽=新華社記者/王全超)=2019(令和元)年7月31日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019080501368

  •  「桃園の誓い」の地「三義宮」を訪ねて河北省涿州市
    2019年06月21日
    「桃園の誓い」の地「三義宮」を訪ねて河北省涿州市

    21日、劉備の息子の阿斗(劉禅の幼名)、関羽の息子の関興(かん・こう)、張飛の息子の張苞(ちょう・ほう)を祭る「少三義殿」。中国の河北省涿州(たくしゅう)市は「三国志」の英雄、劉備と張飛の故郷であり、「三国志演義」の第1回「桃園に宴して三人の豪傑が義を結び、黄巾賊を斬って英雄初めて功を立てる」の舞台でもある。三国志の壮大な物語はこの地から始まる。市内の松林店鎮楼桑廟(ろうそうびょう)村にある「三義宮」は劉備、関羽、張飛が義兄弟の契りを結んだ「桃園の義」を記念して建てられたもので「蜀先主廟」「漢昭烈廟」とも呼ばれる。創建は隋代で唐の乾寧(けんねい)4年(897年)に再建された。金の承安4年(1199年)と元の至治(しち)2年(1322年)に修築され、明代と清代にも修繕が行われた。明の正徳(せいとく)3年(1508年)には武宗(正徳帝)が「勅建三義宮」の書を授けている。三義宮の建築群は1960年代に破壊されたが、1996年に再建された。旧暦3月23日は劉備の生誕日とされており、毎年大勢の人が集まり祭祀を営む。元代以降は「楼桑春社」として「涿州八景」の一つになっている。(涿州=新華社記者/白明山)=2019(平成31)年6月21日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019062800133

  •  「桃園の誓い」の地「三義宮」を訪ねて河北省涿州市
    2019年06月21日
    「桃園の誓い」の地「三義宮」を訪ねて河北省涿州市

    21日、劉備の息子の阿斗(劉禅の幼名)、関羽の息子の関興(かん・こう)、張飛の息子の張苞(ちょう・ほう)を祭る「少三義殿」。中国の河北省涿州(たくしゅう)市は「三国志」の英雄、劉備と張飛の故郷であり、「三国志演義」の第1回「桃園に宴して三人の豪傑が義を結び、黄巾賊を斬って英雄初めて功を立てる」の舞台でもある。三国志の壮大な物語はこの地から始まる。市内の松林店鎮楼桑廟(ろうそうびょう)村にある「三義宮」は劉備、関羽、張飛が義兄弟の契りを結んだ「桃園の義」を記念して建てられたもので「蜀先主廟」「漢昭烈廟」とも呼ばれる。創建は隋代で唐の乾寧(けんねい)4年(897年)に再建された。金の承安4年(1199年)と元の至治(しち)2年(1322年)に修築され、明代と清代にも修繕が行われた。明の正徳(せいとく)3年(1508年)には武宗(正徳帝)が「勅建三義宮」の書を授けている。三義宮の建築群は1960年代に破壊されたが、1996年に再建された。旧暦3月23日は劉備の生誕日とされており、毎年大勢の人が集まり祭祀を営む。元代以降は「楼桑春社」として「涿州八景」の一つになっている。(涿州=新華社記者/白明山)=2019(平成31)年6月21日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019062800135

  •  「新華社」四川博物院、諸葛亮が「空城の計」で奏でた曲を再現
    00:30.62
    2019年05月16日
    「新華社」四川博物院、諸葛亮が「空城の計」で奏でた曲を再現

    諸葛亮(しょかつ・りょう、中国三国時代の蜀漢の政治家・軍師)が戦術「空城の計」(くうじょうのけい、あえて自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略)で奏でた曲とされる「流水」が16日、中国四川省成都市の四川博物院で披露された。古琴は中国の伝統的な撥弦楽器(はつげんがっき)で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録されている。湖北省にある戦国時代初期の諸侯の墓、曾侯乙墓(そうこういつぼ)から出土した十弦琴は、これまで中国で発見された最古の琴で、今から2500年以上前のものとされる。古琴の流派の一つである「蜀山派」を代表する人物には、司馬相如(しば・しょうじょ、前漢時代の文章家)や諸葛亮がおり、「流水」はその代表作とされている。同日夜に開かれた古琴演奏会では、古琴演奏家である中国琴会の曾成偉(そう・せいい)副会長が、観客にこの「流水」の演奏を披露した。5月18日の国際博物館の日には、四川博物院で唐代から清代にかけて作られた19の古琴が一般公開された。そのうち同院の宝と称される唐代の古琴「石澗敲氷(せっかんこうひょう)」が多くを占めていた。同展の開催期間中、同院では念入りに選んだ古琴に関する漢代の画像塼(がぞうせん、模様や図象を線刻、浮き彫りまたは型押ししたれんが)の複製品を使った「画像塼の拓本体験」イベントを実施する。(記者/童芳)<映像内容>古琴の演奏、撮影日:2019(令和元)年5月16日、クレジット:新華社/共同通信イメージズ

    商品コード: 2019052200218

  •  浅草仲見世
    -
    浅草仲見世

    浅草仲見世入口から仁王門(現宝蔵門)を望む。左は梅林焼にやきもちを売る梅林堂。左の塔は手前が共栄館勧工場(かんこうば)で奥が梅園勧工場。勧工場とは現在のショッピングセンターみたいなもの。共栄館勧工場は大瀧勝三郎館主が明治27年(1894)に開業。時計塔は明治29年(1896)に作られたが、大正10年(1921)に増築のため廃止された。明治30年(1897)頃の撮影。=撮影年月日不明、東京、撮影者:玉村康三郎、クレジット:長崎大学附属図書館所蔵/共同通信イメージズ ※この説明文は、画像の委託時につけられた情報です。研究の進展により記載の情報が変わる可能性があります。 [整理番号48‐129‐0]

    商品コード: 2017080903201

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